黙 示 録 の 世 界

ヨハネ黙示録 1:1-20

 中学、高校生のころ、夏になると毎年、軽井沢で開かれたダニエルズ先生のサマー・バイブル・スクールに行きました。一週間ほどの滞在の間に、たいがい一度は、すぐ裏の離山に登りました。一時間ほどゆっくり歩いて頂上に達します。そこに露出した大きな岩が二つほどあって、その窪んだところに腰をおろして長い間だまって眼下の景色を眺めているのが一つの楽しみでした。信越線が、左手の方は軽井沢駅を越えてずっと碓氷峠の方まで、右手の方は沓掛駅(今の中軽井沢)の先まで見えたように覚えています。時折、蒸気機関車が白煙を上げて音もなく通過するのを端からは端までずうっと目で追うことができました。
 すすきや秋の草花がゆれる山頂からそうやって下を眺めていると、日ごろの苦労や悩みがうそのように解消して行くのを感じたものです。
 さて、今週から「ヨハネの黙示録」を学びます。黙示録は、風変わりな書です。新約聖書の他のどの文書ともずいぶんと違う雰囲気の書です。読んでいると、今まで見たこともないような別世界に急に連れて行かれたような気がします。でも、新約聖書のほかの個所に、多少なりともこれに似た文章がまったくないわけではありません。イエスさまが、宣教を開始される直前 に、荒野で悪魔の試練に遭われた時のあの記事を思い浮かべることができます。悪魔の最初のテストは、これらの石をパンに変えよ、というものでし た。それから第二、第三のテストが続くわけですけれども、この第二、第三のテストの導入部にはそれぞれ、「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った」とか、「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、・・・と言った」という文章が出てきます。これはまさに黙示録の世界ではないかと思います。悪魔は突然、地べたに転がっている石ころに目を注いでおられるイエスさまをさらって行き、エルサレムの神殿の屋根の端に立たせ、更には全世界を見渡せる高い山へと連れて行くわけです。
 こんど黙示録を学ぶにあたって、あらためて驚かされたのは、聖書の表現様式の多様性ということです。一例を上げれば、旧約聖書の預言書の多くは散文ではなく詩の形式で綴られています。なぜか。必然性があったと思いますが、ここでは深入りしません。黙示録。この特異な表現形式。これにも、表現される事がらそのものに即した必然性があるはずです。「黙示」(アポカリュプス)とは、覆い隠されているものを明るみに出すという意味を持つことばです。英語では、普通、レヴェレーションと言います。「啓示」と訳すこともできます。普通の視点では発見できない事がらが、黙示録の視点によってあらわにされるのです。表現様式の多様性と言いましたが、それは、わたしたちが生きているこの世界に隠されている事がらの多様性、多重多層性と関連しています。地べたをはう虫の視点で見なければ見えてこない事がらがあり、空に舞う鳥の目をもって見なければ見えてこない事がらもあるわけです。人間存在と歴史の全領域にアプローチする道は、決して一様ではあり得ないわけです。近ごろはやりの超という字を借りて言えば、黙示録は、いわば超歴史、超自然、超時空の地点から歴史を見、歴史を語っていると言えるかも知れません。そのような視点を与えることのできる方として、まず冒頭の1節に、イエス・キリストの名が上げられています。





IPCC Office

Chair - Masaharu Asayama


E-mail : asa@ipcc-21.com