忠 実 で あ れ

ヨハネ黙示録 2:8-11

 わたしは、ある短大を卒業するとその短大に助手として安い給料で残ることになりました。雇用者である学長のことばがふるっていました。君、給料が安いからといって仕事ぶりをそれに合わせてはいけませんよ、というのです。結局、自分の志すところは別にあることが分かってきてそこには一年勤めただけでしたけれども、与えられた職務に忠実に取り組むことと給料の多い少ないとは別のことなのだという、資本主義の理論とも社会主義の理論とも違うであろうあの先生の不思議な理屈は、今も忘れられない教訓としてわたしの中で厳然と生きています。
 聖書は、人生をどう生きるかということで最も大事なことは忠実であることだと教えているように思います。あの有名なタラントのたとえ。「よい忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」ということばが、主人から預かった五タラントでほかに五タラント儲けた僕と、二タラントでほかに二タラント儲けた僕とに語られています。一タラントを預かった男は、少ないのが不満だったのでしょう、何もせず、決算の時、元の一タラントだけを 持ってきました。主人は、「悪い怠惰な僕よ」と彼を叱り、その一タラントを取り上げてしまいます。
 別の個所には、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」ということばがあります。忠実であるということが、人間にとってどんなに大事なことであるかが分かります。
 さて、黙示録のきょうの個所には、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」とあります。パウロは、「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」と言いました。中途半端な生き方ではなく、目的のはっきりした意味のある生き方をしなければなりません。目標を目指してまっすぐに進む。それを黙示録は、「死に至るまで忠実であれ」と言ったのです。
 忠実ということばは、原文のギリシャ語では、ピストスです。それは、信仰と訳されるピスティスと同根のことばで、信頼を表すことばでもありま す。辞典には、武器の信頼性とか武器の操作についての信頼性を表わす用例が上げられています。ですから、「死に至るまで忠実であれ」とは、ただ信仰者を叱咤し彼の意志の強さと努力を促しているのではなくて、このことばの発信者、「初めであり、終わりである者、死んだことはあるが生き返った者」というタイトルで紹介されている、イエス・キリストへの絶対的な信頼へと励まし向かわせることばでもあるわけです。キリスト者の忠実さとは、結局、復活者イエス・キリストへの信頼(帰依)にほかならないのです。ここでも、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」というパウロ的信仰の響きが聞こえてくるように思います。
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