大 い な る 日

ヨハネ黙示録 6:1-17

    信仰を考えると、どうしても殉教ということが出てきます。ヨハネ福音書の最後のところ(21章)に、復活の主イエス・キリストがペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛する か」と三回問う有名な個所があります。三度イエスを否んだことのあるペテロは、今度こそはイエスさまに最後まで従って行こうと思います。そのペテロにイエスさまは、殉教を予告し、そして、「わたしに従ってきなさい」と言われます。この個所に来ると、わたしは何か落ち着かないものを感じ、そそくさと先へ目をやってしまいます。復活者イエス・キリストへの愛を、自分の命と引き替えに人々に伝える。とてもそんな器ではありません。勘弁してください。そう言って逃げまくっているのが、偽らざる自分の姿のように思えます。

 さて、ヨハネ黙示録ですが、この書が語っていることを一言で言えば、大ローマ帝国は間もなく滅びる。神が勝利し、キリストの国が到来する、ということです。しかし、それまでには、さまざまの苦しい道のりがある。それを示すために、七つの封印が一つ一つ解かれて行くわけです。(それだけではない。七つの封印の後には、七つのラッパ、七つの鉢がさらに続きま す。)戦争や、飢饉や、疫病や、自然の災害が次々に起こるわけです。そしてその中に、キリスト者たちの殉教の死があるということが、きょうの個所の9節から11節に言われているわけです。

 キリスト者であるがために殺されて行った人々の霊魂が、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」と大声で叫んだというのです。「いつまであなたは」ということばは切実です。歴史の泥沼はいつまで続くのでしょうか。神さま、早く決着をつけてください、と言いたくなります。ところが、彼らに与えられた答は、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」ということばだったのです。

 昨年の地震で、六千人を越える人々が亡くなられました。その意味を考えると、そこには贖罪的な意味があるようにわたしには思えます。先の戦争で大勢の人が亡くなられました。そのことが忘れられ、戦後五十年の年に、また尊い多くの命が失われなければならなかった。そこに、贖罪の意味があったのではないか。この国がまっとうな国になるために、多くの命が捧げられなければならなかった。これは、あまり正統な神学とは言えないかも知れませんけれども、そのような思いがしてならないのです。

 この時代が救われるためには、血の報復を求めるのではなくむしろ血を流し命がけで主を証しするキリスト者の働きが必要なのです。世界のいたるところでさまざまの悲惨が毎日のように繰り返されています。それにストップをかけることができるのはだれでしょうか。「御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。





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