神 の 裁 き の 現 実 性

ヨハネ黙示録 9:1-21

 前衛的な(つまり分かりにくい)作品で知られる小説家・劇作家の安部公房に、「あるいはAの場合」(「箱男」)という短編があります。それは次のような文章で始まります。

 <ある日、Aのアパートの窓のすぐ下に、一人の箱男が住みついた。いくら眼に入れまいとしても、自然に入ってしまう。いくら黙殺しようと努力しても、意識せずにいられない。Aを襲った最初の感情は、不法に領分を犯されたような、苛立ちと困惑、割り込んで来た異物に対する、嫌悪と腹立ち だった。>

 Aは目障りな箱男を何とか立ち退かせようとしますけれどもうまく行きません。とうとうある日どこからか空気銃を借りてきて、箱に穴を開けてこちらを見ている男の腕のつけねあたりと思われる箱の部分を狙って弾を撃ち込みます。箱の中の男がどの程度の傷を負ったのかが判然とせずAの気をもませますが、男は箱のままそこを立ち去って行きます。かなりの時が経ちAが都合よく箱男のこと忘れかけた頃に、買い替えた冷蔵庫がダンボールの箱に入って届き、なかみを出して空になったその箱を見たとたんに、箱男の記憶 がよみがえって来ます。

 そのうちにAはこの箱の中に入り込んで生活を始めるわけですが、この短い作品の最後は、<そして、翌朝、− ちょうど一週間目− Aは箱をか ぶったまま、表に出た。そしてそのまま、戻ってこなかった。>という文章で結ばれています。

 何か分かりにくいものを引っ張り出してきて恐縮です。ただ、自分流の読みになりますけれども、Aが眼の前の不快なものから解放されようとして、結局最後は自分自身が排除されて行く結末に、現代の社会に生きる我々自身の姿を見る思いがして、黙示録のきょうの個所と読み合わせて興味深く思ったのです。至近距離で展開されるさまざまの病理的社会現象。(テレビやパソコンは、まさに箱です。)天災人災の区別さえつけにくくなったさまざまの災害。何とかならないものかと、世の中全体が不安にかられ、苛立ち、困惑し、嫌悪し、腹を立てています。しかしまた、「誰もが、出来れば、見て見ぬふりですませたかった」のでもありますけれども、その相手すなわち厄払いしてしまいたい箱の中の男は実は自分ではないかという意外な展開になります。ここに現代人の窮状を見る思いがするわけです。

 つまりわたしたちは、現代がかかえるさまざまの問題は我々の外側にあるのではなくて我々がその中にその一部分としてあるのだという紛れもない事実に行き当たるわけではないでしょうか。世の中のさまざまの現象を不快に思うということは、自分自身を不快に思うことにほかならない。現代の問題は、外側の問題ではなくて、まさに自分自身の問題であるということです。

 ヨハネ黙示録は、神の審判としての災厄を次々に描き出します。さまざまの災害や人間の不幸は、人間の傲慢や罪と無関係ではないのです。次々に引き起こされる恐ろしい災厄は、悔い改めへの呼びかけなのです。黙示録は世界と教会を二元論的にとらえているといよく言われますが、はたしてそうでしょうか。世界を外側において時代を論ずるのではなく、悪に支配されているこの世の真ただ中で、神の裁きを告げ、悔い改めを呼びかけ、救いの希望を指し示す。そこに黙示録のメッセージがあるのではないでしょうか。





IPCC Office

Chair - Masaharu Asayama

(Pastor,Kunitachi-Nozomi Cumberland Presbyterian Church)

3-15-9 Higashi,Kunitachi-shi,Tokyo,Japan 186

TEL +81(0)425-72-7616  FAX +81(0)425-75-5049

E-mail : ipcc@po.eis.or.jp


ipccEYES