諸民族、諸国民、諸言語、諸王と福音

 ヨハネ黙示録 10:1-11

 何とはなしに、<ほ、ほ、ホタルこい。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ。ほ、ほ、ホタルこい。>というこどものころ覚えた文句を思い出しました。宗教もしばしば、「こっちの水は甘いぞ」と言って人を引き寄せようとしているのではないかと思ったわけです。ところが、主イエスの宣教のことばは、ただ甘いだけのことばでは決してない。いなむしろ苦い。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。福音という甘味な贈り物は、悔い改めよという苦みとセットで提供されている。このこと は、先駆者バプテスマのヨハネの説教を見るならば一層はっきりと現れてきます。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りからのがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧がすでに木の根もとに置かれている」。このままでは自分はだめだという思いがあるから、福音を信じて救っていただきたいという願いが起こるのではないでしょうか。ただ甘いだけのことばはこの時代を決して救わないと思うわけです。パトモス島のヨハネは、キリストを思わせる「御使」の手から巻物を受け取り、それを食べた。<すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹に苦くなった。>  

旧約聖書で預言者ヨナは、切迫する神の裁き告げます。それによって、ニネベは悔い改め、神の救いが与えられたのでした。救いをもたらす宣教のことばは、甘い。しかし、同時に苦いのです。これが、一つ。  

もう一つは、いわゆる民族問題です。「民族」の問題は、今世紀の終わりから二十一世紀にかけて、人類が解決しなければならない最も難しい問題です。実は、聖書は、この問題について大いに発言していることを強調しなければなりません。きょうの11節に、<その時、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」という声がした。>とあります。宣教の相手である多くの人々について、「諸国民、諸民族、諸言語、諸王」(「多くの民族」以下はこのように訳すことができ る。)といった多様な呼び方をしています。人間を、一つの帝国、一民族国家の成員という括り方だけで捕らえていない点が重要です。いろいろなあり方の人々がいて、その一人一人が等しく神の前に立たされているのです。  

こういった問題に関連して、先週岩波新書から出た武者小路公秀さんの 「転換期の国際政治」は、非常に示唆に富んだ論文です。武者小路さんは、このようなことを述べています。多くの場合<はじめに単一の民族があっ て、それが国家を作ったのではなく、まず主権国家=領域国家が存在して、それがその領域内に、教育政策・文化政策によって、単一の民族を権力的につくり出すという民族国家の「統一」が進められたのである。> そして武者小路さんは、民族国家=主権国家=領域国家の「国民」であり「市民」であるという恵まれた地位を与えられている「民族」に対して、さまざまの状況のもとでこの特典を持たず、国家によって構成される国際社会から「はみだしもの」扱いにされている「エスニー」の存在を大きくクローズアップ し、<エスニーに強権的に対処する国家はもちろん、恩恵的に対処しようとする国家の場合にも、エスニーとの間にいろいろな深刻な摩擦・紛争を引き起こしている>と述べています。  

黙示録は、「諸国民、諸民族、諸言語、諸王」ということばによって、 「はみ出し者」を含むすべての人々を表現しようとしているわけです。このことは、福音の宣教を考える時に非常に重要な意味を持つと考えられます。





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