事 は す で に 成 っ た

ヨハネ黙示録 16:1-21

 きょうと明日の二日間、<聖書とわたし>をテーマに、のぞみ・めぐみ合同の春の退修会が開かれます。「聖書」。長年、聖書を読んでいて、つくづく聖書ほどおもしろい読み物はないと、心底思います。一言に聖書と言いますけれども、聖書は、実にバラエティに富んだ文書の集積です。新約聖書一つを取ってみても、四福音書があ り、パウロの書簡があり、その他の文書があり、そして黙示録があります。それぞれに、独特の個性があります。中でもヨハネ黙示録は、異色です。最初読んで、まずお手上げという思いをするものです。異様というか、とても普通に読んで分かる文書ではありません。で、大概は、謎の書として、封印されてしまいます。

 実は、見かけほど訳の分からぬ文書ではないのです。著者の、とびきり傑出した芸術的資質と、黙示文学の手法が、この書を最初近づきにくいものにしていると思います。内容は、異常でも何でもありません。その信仰思想も、他の新約聖書諸文書のそれとかけ離れたものではもちろんありません。

 まず、他の聖書文書と同じように、この書は、人間の歴史にわたしたちの関心を向けます。歴史は、ただ目標も方向性もなく漠然と進行していくのではありません。神の救いの計画のもとに、終末に向けて進んでいきます。終末とは、救いの完成の時です。しかし、それは、神の裁きの時でもあります。神の義とこの世の不正とは決して両立しないからです。個人史においても世界の歴史においてもこのことは厳然とした事実であるというのが、黙示録のそして聖書の主張です。どう生きても同じだというのは、まったく間違った考えです。

 黙示録は、何千年も先のことを念頭に置いて書かれた文書ではありません。いやこの著者は百年先の事を言っているのでもありません。終末の出来事をすぐにも起こることとして描いています。そもそも聖書が終末を語る時、それをいつになるか分からない遠い未来のこととして書いてはいません。終末の切迫は、福音書、パウロの書 簡、また他の書に共通に見られる特色です。もっとも、切迫した終焉はきょうであるかも知れないし千年後二千年後であるかも知れない。で、ペテロ書は、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という名言を残しました。

 いずれにしても、歴史は、そしてわたしたちの人生は、終わりなくのんべんだらりと続くのではありません。神のさばき、最後の審判が、盗人のごとくにやって来る。これが、新約聖書全体を貫く終末論の一局面なのです。

 黙示録は、歴史がまさに最後の段階に来たということを、非常にビジュアルに描き出します。きょうの16章では、出エジプト記に記述されているさまざまの災害を想起させるような情景が出てきます。ファラオは、災害が起こる度に神を恐れモーセの申し出を聞き入れますけれども、事が治まるとまた性懲りもなく神に反抗します。こうして、神のさばきは何波にもわたって繰り返されるわけです。

 現代において、神の怒りの鉢が、何度、地に傾けられたでしょうか。広島、長崎、ヒトラー、アウシュビッツ、南京、ボスニア・ヘルツェゴビナ、麻原・・・と思いつくままに上げただけでも、いや、多く上げる必要はない、チェルノブイリ一つを上げれば十分かも知れません。現代がいかに危機的な時代であるかが分かるのではないでしょうか。「第七の者が、その鉢を空中に傾けた」ということばなど、まさに、現代への警告になっています。

 聖書が語るもう一つの重要な側面があります。それは、イエス・キリストにおい て、神はすでにさばきと救いの業を完成されたということです。終末のさばきと救いが、イエス・キリストの十字架と復活において先取りされています。それ故にキリストを信じる者には、確かな勝利が約束されているのです。ここに教会の強みがあります。信仰を持たない者には、神がイエス・キリストにおいてなされたこの救いの業が見えないのです。





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