サ タ ン の 敗 北

ヨハネ黙示録 20:1-15

− 持 ち こ た え る 力 −
   以前、静岡県の御前崎に行ったことがあります。海に向かって槍の穂先のように突き出た岬の突端に灯台があって、そのあたりの岸壁から見た海の眺めは実に壮観なものでした。ほとんどぐるっと360度見回すことのできるその場所からは、左側の駿河湾と右側の遠州灘の波が岩壁に向かって斜めの角度で次から次と押し寄せてくるのを同時に見下ろす事ができました。波は岬の突端で複雑にぶつかりあい、激しく砕けて行きました。息をのむようなあの光景は、あそこのあの場所でしか見ることはできない。そのように感じたことを、今思い起こしています。

 さて、パトモス島のヨハネは、「またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた」、と語ります。さらに、「また見ていると、・・・」ということばが、何回も語られます。いったい、ヨハネは、どこに立ってどのようにして見ているのでしょうか。ヨハネが見ているものを見るには、わたしたちも、ヨハネが立っているその場所に立って見るのでなければならないのではないでしょうか。 ヨハネは、黙示録の冒頭でこう述べています。「イエス・キリストの黙 示。この黙示は、神が、すぐに起こるべきことをその僕たちに示すためにキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした」。イエス・キリストにおける神の啓示という場において、ヨハネは、見ており、そして語っています。もっと簡単にいうならば、イエス・キリストというお方において、ヨハネは、 見、語っているのです。イエス・キリストにおいて、ヨハネは、歴史の過去・現在・未来を見ているのです。

 比喩で説明して見ます。円を描いて下さい。その中心の点。そこにイエス・キリストは、まさに時の中心として立っておられる。イエス・キリストの生と死と復活の出来事は、過去現在未来の歴史の線の中心に起こった出来事です。初めがあり終わりがある歴史の線上に立つ、救済者・王の王・主の主であるイエス・キリストは、あたかも直線の歴史を、円環をその中心に立って見るように見ておられる。わたしたちは、過去は忘却の中に、未来は未知の中に、現在は不確実性の中にしか見ることができません。しかし、イエスにおいて、過去・現在・未来は、一点に集約されています。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしがアルパであり、オメガである』」(1:8)。「事はすでに成った。 わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである」(20: 6)。「見よ、わたしはすぐ来る。・・・わたしはアルパであり、オメガ である。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」 (22:12−13)。これが、黙示録の語る神でありイエス・キリストです。ヨハネは、時の中心であるイエス・キリストにおいて啓示された神の場に自分をおいて歴史を見、そして語っています。わたしたちも、ヨハネが身を置いているところに身を置いて見るならば、ヨハネのメッセージを鮮やかに聞き取ることができるでしょう。そして現代の歴史を、まったく新しい視点から見る者となるのです。そしてそれは、わたしたちにとって、キリスト者としての生き方を持ちこたえる確かな力となるのです。





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