主 よ 、 来 た り ま せ

ヨハネ黙示録 22:1-21

 大江健三郎さんは、二十代の終わりころに、脳に障害を持って生まれてきた子どもの親となって、混乱し、迷い、悩んでいた時期に経験した一つの出会いが、その後の人生を切り開いていく大きな力となったことを、しばしば語り、書いています。<僕は根本のところで励まされ、病んでいる深みから癒されるように感じた。その時、僕にとってひとつの新しい生の視野が確かに開かれたのである・・・>といった風に。

 その出会いとは、広島原爆病院の重藤文夫博士との出会いです。ご自身も原爆被災者であった重藤医師は、原爆が投下されたその日から、広島で被災者の治療にあたってこられた方です。その日病院は被爆した負傷者であふ れ、中庭では死者たちが積み重ねられ焼かれている。一人の若い医師が重藤博士に、これでは治療を施しても無駄ではないかと議論をしかける。重藤博士は、いま目の前にこれだけの数の傷ついて苦しんでいる者たちがいる以 上、自分たちとして、彼らを治療するようつとめるほかないではないか、と答えます。重藤博士に議論をしかけた若い医師は、不幸にもその直後、首をくくって死んでしまいます。大江さんは、希望の持てないそのような状況の中で医師としてまた一個の人間としてしなければならないことに生涯をかけている重藤博士の姿にふれて、自分の運命を引き受けて行く力を得たのだと思います。

 さて、黙示録の学びは、今回でいったん終わります。何と不思議な書でしょう。パトモス島のヨハネは、一般的には見通しのきかない絶望的な状況の中で希望を語っています。彼は、新しい天と新しい地を見た、と言いま す。聖なる都、新しいエルサレムが、天から下って来るのを見た、と言います。その都には、命の水の川が流れていて、その両側に命の木があって、 <その木の葉は諸国民を癒す>と言っています。

 サラエボ、ベルファスト、エルサレム、と現代の世界の都市の名を挙げる行くと、ほとんど絶望的な思いにさせられます。このような状況から抜け出す道はどこにあるのでしょうか。教会の宣教の業が、何ほどの意味を持つのでしょうか。このちっぽけなわたしの説教やちいさな証しが、この時代の大きな悲惨と暗愚の中で、いかなる意味を持ち得るのでしょうか。何もかも、無駄ではないのか。しかし、このような状況にあってなお、キリスト者は、神の国を目指して、語り、生きて行くほかないのです。

 聖書の最後の書が、諸民族の癒しについて語り、都市すなわち共同体の救いについて語っていることに注目したいと思います。新しい人類共同体の出現が描き出されているのです。御国を来らせ給えと祈る、その祈りが聞かれる日のことが語られているのです。キリストが到来され、王として統治されるのです。「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである」お方すなわちキリストは、「見 よ、わたしはすぐ来る」と言われます。そして、黙示録は、従って旧新約聖書は、次のことばで閉じられています。<これらのことをあかしする方が仰せになる、「然り、わたしはすぐ来る」。アァメン、主イエスよ、来たりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。>

 わたしたちとしては、「アァメン、主イエスよ、来てください」と祈るほかないではありませんか。





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