ipcc talk 2002
ipcc talk 2005
ipcc talk 2004
ipcc talk 2003
ipcc talk 2001以前
ジョン・レモンで行きましょう。
 Lennon の真ん中の nn をつなげて、一本抜くと、m になる。
レモンは、英語では、あいつはかすだ、一本足りない、
という意味で使われたりもするようで す。ますますありがたい。
小さく弱い者たちよ、梶井基次郎の「檸檬(れもん)」で行きましょう。
どこへ行くにも、レモンを一つ懐に入れて出かけましょう。
それを、行く先々に、そっと置いてくるのです。

(どうぞ、ここ「ipcc talk−談話室」 2001/12/25 と 2002/01/14 の
記事を一度ごらんください。)
M. Asayama


EYES TALK FORUM IPCC HOME TOYOGAOKA


2002/12/08 掲載

Greetings

起きよ、光を放て。/あなたを照らす光は昇り 主の栄光があなたの上に輝く。
見よ、暗黒は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上に主は輝いて、主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:1-2)

 紅葉が美しい秋でした。気温が例年より2度ほど低かったとか。
 バザーでは、みなさまの大きなご支援、大変に有難うございました。とても寒い日で後半は小雨も降り、そのせいか人出もいつもより少なかったようです。それでもいろいろな方たちが次々にお見えになり、とても楽しい一日でした。収益は約36万円、目標額(50万円)には少し及びませんでしたが、多くの方々の大きなご支援の賜物です。神に感謝し、バザー委員会はじめ一同、みなさまのご好意に心からお礼申し上げます。有難うございました。
 尚、収益の多くの部分は、福祉関係の諸施設をはじめ、ペシャワール会など海外援助団体などへ献金させていただきます。

 さて、師走にはいり、教会ではクリスマスに備えるアドベント(待降節)の季節を迎えました。クリスマスの諸集会を次のように守りますので、どうぞカレンダーに丸をつけ、お誘いあわせて多数お出でくださいますようお願いいたします。

2002年 クリスマス

テーマ  Be a Person!  の誕生
― となりたる ―

クリスマス聖日礼拝             12/22(日)  午前10:30
     この日、礼拝後、祝会を開きます。(無料)

燭火賛美礼拝(キャンドルサービス)   12/24(火)午後7:30
アドベント夕礼拝      12/16−21(月−土)毎夕7:30−8:00

 末筆になりましたが、わたくしは、今年末(1231日)、定年退職することになりました。至らぬところの多い牧師でしたが、神のあわれみとみなさまの温かいお祈りとご厚意に支えられて40年の長い年月をこの教会で実に楽しく過ごさせていただきました。心からお礼申し上げます。
 なお、事情により、引越しは年が明けてからゆっくり時間をかけてする予定です。移転先は、多摩ニュータウン豊ヶ丘団地です。

 では、クリスマスには、是非お会いしましょう。

国立のぞみ教会
牧師 朝山正治
2002/12/03


一つの体を形づくって
(2003年度 教会目標)

ローマの信徒への手紙 12:3−13
2002/11/17 Sun.
国立のぞみ教会 後期教会員総会
*  *  *  *  *

 お世話になりました。
 あと一月あまりで、退職させていただきます。
 神が、このようなわたしを長い年月ただ一つの教会の牧師として用いてくださいましたことを、恐懼感謝します。最後のお願いとして、自らにも言い聞かせるつもりで、ローマ書のことばをそのまま載せることにします。何かあるごとにここを読み、「キリストに結ばれて一つの体を形づくって」くださるよう心よりお願いし、そうなりますようお祈りします。
 朝山正治
 2002/11/17

ローマの信徒への手紙 12:3-13

 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくって、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 <わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大評価してはなりません。・・・>(ローマ12:3)

 旧約聖書のヨブ記は、何不自由なく暮らし、立派な人とみんなから慕われ尊敬されていたヨブという人間が、次々に襲いかかってくる不慮の出来事によって、すべてを失い丸裸にされていく物語である。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)という独白は、人間として徹底的に砕かれたヨブが最後に到達した信仰の境地(信仰告白)を述べたものと言っていい。▼最近の北朝鮮に対する日本政府の姿勢やにわかに勢いづいてきたある勢力に迎合して発言するテレビ人や一般日本人の態度は、かつての大泥棒が泥棒を捕まえていっぱしの説教を垂れ、偉そうにしているようなものである。イエスが語られた、莫大な借金を赦されながら人の負債を赦そうとしない傲慢な人間のたとえ(マタイ18:21-35)を読むとよい。いくら犯罪国家とは言え、それなりの歴史的経緯もあるであろうし、それには日本が大いに関わってもいる。経済力や軍事力を背景にした正義を振りかざし、相手を侮蔑し、侮辱し、動きのとれぬところへ追い込んでしまうのは、政治的にも問題だし、人間としても恥ずかしい。身の程を知らぬ成り上がりものの振る舞いと言われかねない。▼かつて「熱心の点では教会の迫害者」を任じていたパウロは、「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである」と述べている(ピリピ38 口語訳)。キリストとの出会いにおいて、自分が誇りとして身にまとっていた一切の外衣を剥ぎ取られ、ヨブのように全く裸にされたのである。そして、キリストを着たのである(コロサイ3:10)。「そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリスト・イエスがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3:11)。▼わたしたちが持っているものでもらわなかったものが一つでもあるであろうか。境遇も、才能や能力も、容姿や体格も、みなもらいものである。もらい物を信仰によって受け止め直すとき、それは賜物となる。足らんと思うものがかえって大きな「タラント」(タレント・賜物)になるのである。▼わたしたちは、何を根拠にしてクリスチャンであるのか。何を根拠にして、牧師であるのか。何を根拠にして、長老であったり、執事であったりするのか。何を根拠にして、教会学校の教師であるのか。何を根拠にして、教会のいろいろな会の委員であったり長であったりするのか。あるいは、何を根拠にして、教会のいろいろな奉仕やわざをするのか。たとえば、会堂の掃除ひとつにしても、何を根拠にしてこれを行うのか。▼だれかに頼まれたからか。自分に何かの特別な才能や、能力、資格があるからか。自分の好みや都合に合致するからか。時間があるからか。名誉のためか。金のためか。▼そうではない。上からの召しによるのだ。パウロは、これを神の恵みと言った。ローマ書で、「わたしたちはこの方(わたしたちの主イエス・キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」と書いている(1:5)。▼「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、・・・」とある。そう。わたしたちは、それぞれ神からいただいた恵みの賜物によって、神に仕え、教会のわざをする。それが、神とわたしとの関係であり、教会におけるお互いの関係である。また、この世におけるキリスト者の生涯である。

パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがある」(コリント一15:10)と言っている。わたしのことになるが、わたしのようなほんとうにいたらぬ者が、ただ一つの教会の牧師として長い年月働かさせていただけたのは、ただただ神の恵みによる。退任を前に、そのことを深く受け止めなければならないと思っている。神の恵みに感謝し、みなさんにお礼申し上げたい。
2002/10/11掲載


召天者記念礼拝
11月3日(日)午前10:30

賛主

日ごとに秋の気配が深まってまいりました。みなさまには如何おすごしでしょうか。

来る11月3日の日曜日に、教会に連なる方で故人となられた方々を偲びまして召天者記念礼拝を守ることになりました。ご近親の方たちにお知らせくださり、お気軽にというのも変ですが初めてのお方やクリスチャンでない方々もどうぞお気兼ねなく、是非ご出席くださいますよう心よりご案内申し上げます。

岩波書店の「図書」誌の最新号に、テレビなどにも時々顔を出される辛淑玉さんが、永六輔著「大往生」(岩波新書)について「三途の川の渡しから」という面白い記事を書いています。その最後のところにこんなことが書いてあります。

<ちなみに、私と永さんはある固い約束をしている。私が先に死んだら永さんが私の葬式で「お経」を上げ、永さんが先に空に昇ったら、永さんの棺の前で私が「泣き女」をやるという約束である。/周囲が二人の関係をいぶかるような怪しい装いで、わーわー、わーわー泣こうと今から画策しています。/どちらが先に逝っても、乞うご期待。>

教会では、お経も「泣き女」もありませんで、キリスト教の形でお決まりの讃美歌、聖書、説教ということになりますけれども、ご親族の方をはじめどなた様もご自由にそれぞれのお思いでお集まりくださり、記念礼拝に参加してくだされば、それはそれで意味のあるよい記念会になると思います。どうぞ花一輪を携えてご出席くださいますようお願いいたします。お花は、恐縮ですが、一輪(いちりん)限りにしてください。

わたしのことを申して恐縮ですが、今年の年末をもって、定年退職することになっております。教会で出会い、お世話になり、親しくしていただき、故人となられた懐かしい方たちを偲び、神様の不思議な摂理と恵みを覚えて、記念礼拝を守ることができますことをありがたく思っております。
みなさまの上に神の祝福をお祈りします。

2002/10/08

主にあって
牧師 朝山正治

国立のぞみ教会
国立市東3-15-9
 


9月は22日、29日と二度の日曜日の説教は、姉妹教会の丹羽先生、鈴木先生にしていただきました。

2002/10/03掲載
逆転した土台
  ルカ福音書 6:46-49
希望が丘教会牧師・鈴 木  淳
9月29日(日)にお招きした鈴木先生の話された説教の要旨

 信仰とは何でしょうか。世の中が、信じるものは皆が幸せで、不信なものが罰を受けるという「因果応報的」に全てが起こるとすればわかりやすいのですが、私達の世界はそうではありません。昨年は子どもが殺傷される恐ろしい事件が続きました。しかしまた、世界中では今年も、私たちの所にニュースとして届かないだけで悲劇は続いています。私はこのようなことを耳にする度に、教会の講壇に立ち話すのがいやになります。それは、その殺害された子どもにとって、親にとって、いやその被害者のみならず殺害者本人にとって、神とは何なのかという疑問の前に立たされるからです。福音とは何であり、聖書とは何であり、神とは誰なのか。このような事態を赦す神とは誰なのか。しかしまた、その事を避けた時、聖書もイエスも死んだものになってしまいます。尚、神は生きておられると信じ、私には、明確な答えを用意できませんが、この礼拝の中でみなさんと共に聖書と格闘したいと願います。/ さて大体なぜ、その加害者は、小学生を、そう自分より遥かに弱い対象を虐殺するのでしょうか。刃物をもって自分より弱い者に危害を及ぼすのか、そうするのか、いやそうせざるを得なかったのか。それは社会が生み出す抑圧の連鎖構造というものです。親に苦しめられた子どもが、大人になりまた子どもを苦しめる主体となるようにです。そこでは、自分自身の人生の再解釈は失われ、権力や社会構造の現状肯定は、無批判的な上下関係を擁護する世界がよしとされ、社会全体の中に心的圧力を知らず知らずと人は心に蓄積させていくのです。このことは世の人が織り成す全ての共同体が持つ原罪なのでしょう。そしてまた、教会もその危険の中にあります。

 聖書の時代は、真にその人の業と、神の戦いです。聖書の記事には、社会的に弱いものが苦しめられる記事が沢山あります。私は、子ども達の殺害事件の時に思い浮かべたのは、出エジプトの「過ぎ越しの祭り」の起源やイエスの降誕による幼児虐殺物語です。しかしまた、それはその社会にイエスが、尚、神が生まれ出ることを意味しています。私たちの一見整っているように見えても、隠し切れない社会全体の亀裂とも言える欠陥(抑圧構造)は、ストレスとなり精神的にも心の弱い人の行動をもって露呈するのです。つまり問題は、個人の罪の問題であると共に、私達が作る社会全体の問題なのです。人間社会の織り成す事件は、社会のひずみ、人間の苦悩が、時として一人の犯罪者となった男を通して、火山のように噴火した一例なのです。そんな社会構造の困窮の中で、イエスは「あんたら土台が間違っていますよ」と言うのです。立派な家はいくらでも立てられますが、その土台が間違っていてはダメです。それは信仰のあり方を示します。信仰とは私達が当たり前としてきた人生の社会の土台を、今までとはまったく違った土台、そうイエスという土台にすげ替えると言うことなのです。そして、更に進めればこの土台の交換は二つの面を語ります。つまり、イエス・キリストに人生の土台を置いている限り間違いないと言うことと、またそれが危ないという事なのです。例えば、私達が悲劇的事件を耳にした時、また世界を苦しめつづける戦争の惨事を覚える時、神に対してまったく懐疑や不安を覚えないとしたら、それは間違った土台に立っているのです。何故なら、私達の土台は、岩のように堅固であると共に、苦しむ岩であり、人の死に出会って涙する岩であり、命さえ差し出す岩である。苦しむものと共に苦しむ岩なのです。大きな悲しき事件を前にして、微動だにしない無機質のコンクリートのような岩ではない、土台自らが、涙をもってその時代の不条理を嘆く、それが私達のイエス信仰なのです。土台が、涙に咽び揺れる時、それを土台とする私達も揺れるのです。主イエスの嘆きの場面は聖書の中によく現れます。「ラザロの死」(ヨハネ11)や、マタイ9.36「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」。また、このルカ福音書の次の章、7章11節からの「やもめの息子の話し」。そこに現れるイエスの「憐れに思い」という言葉は、簡単に訳されていますが、ギリシャ語では、憐れみや同情を現すのに、これほど強い表現はないと言うほどの言葉だそうです。日本語でいえば、まさに「断腸の思い」です。福音書の著者は、主イエスの感情の表現として度々この言葉を使うのです。これは、古代社会では驚きでした。当時のギリシャ哲学のストア派は、神の第一の属性は「無感動」であり、神は他者に影響されない、高貴な方であると考えました。瞬間でも他者に影響を受けるとは、その高貴さの堕落を意味する故に、だから、神は無感動な方であると。しかし私達の聖書の神は、キリストは、イエスはそのような方ではなく腸がちぎれるほど、人の苦難を嘆き同情し、共に苦しむ方です。それが私達の土台なのです。これが私達の神なのです。そこで私達は思うのです。今日もイエスは生きて共におられ。「殺害の現場に、イエスは我らより先立ち、涙を持って、私達にお前の土台とは何なのか?」と語られているのではないでしょうか。みなさんのイエスは今日、どこにおられますか。土台と共に泣き立つ信仰をもちたいと願います。(2002/09/29 Sun.)

2002/10/03掲載
人生の決定的な出会い 創世記32:1-33
東小金井教会牧師・丹羽義正
講壇交換の日曜日(9月22日)の説教要旨

私たちは様々な出会いを経験しながら生きています。人との出会いや出来事との出会いなど、いろいろな出会いがあります。しかし、それとは別の、もうひとつの出会いというものがあります。今日の聖書の中で、ヤコブはその出会いを経験しています。その出会いを経験したヤコブは、名前が「 イスラエル 」と改められています。聖書の中では、名前の変更は生き方が変わったことを意味します( ペトロやパウロのように )。ヤコブは、もうひとつの出会いを通して生き方が変わったのです。この出会いは、彼の人生において決定的な出会いとなりました。そして、それはヤコブが一人ヤボクの渡しに残って兄エサウとの関係を思い悩んでいる時に起きたのです。

ヤコブはずる賢い人間で、兄エサウと父イサクをだまして、長子の権利を奪い取りました。その結果、兄エサウの怒りを買い、命からがら叔父ラバンのところへ逃げたのです。そういう経験をしても、ヤコブの生き方は変わらなかったようです。ラバンのもとでの20年のヤコブの生活は、ラバンのずる賢さに対抗すべく、彼の悪知恵を尽くしたものでした。その結果、ヤコブはラバンたちから油断のならない奴だと言われ、そこにもいられなくなり、故郷に戻ることになります。

しかし、故郷には命を狙った兄エサウがいます。そこでヤコブは兄の怒りをなだめるための策を練ります。悩んだ末のヤコブの策ですが、家族を犠牲にしてでも自分は助かろうとするひどい策です。こういうところを見ると、ラバンのもとでだまされる痛みを経験した事やその中で神様に支えられた経験は、ヤコブの生き方を変えるまでに至らなかったのだと思います。ヤコブはヤボクの渡で眠れぬ夜を過ごします。

そこでヤコブは決定的な出会いを経験するのです。ヤコブは兄エサウに襲われるのではないかとビクビクしていました。兄エサウとの関係のことで頭の中は一杯でした。しかし、ヤコブの恐れに反して、彼は兄エサウに襲われるのではなく、神様に襲われるという経験をするのです。ここが大事な点です。その出来事を通して神様がヤコブに示されたことは、兄エサウとの関係がヤコブの本当の問題なのではなく、神様との関係こそが根本の問題だということでした。そして、ヤコブは、神様と格闘し、神様が本当に畏れるべき方であり、本当に信頼できるお方であると悟らされたのです。これがヤコブのもうひとつの出会い経験でした。

ヤコブは、神様との関係を中心軸に置いたところで、兄エサウとの関係をもう一度受け取り直します。軸がしっかりと据えられたとき、周辺の問題も今までと違った観点から受け止め直すことができるようになるのです。神様との関係が信頼関係で結ばれていれば、他の人間関係やいろいろな出来事、問題を、別の観点からとらえ直すことができるのです。33章では、神様との関係が正されたヤコブが、兄エサウとの関係を修復したことが伝えられています。

兄エサウとの問題に頭を悩まされ、それが全てだと思い込んで心身をすり減らすような生き方から、神様を中心に置き、エサウの問題を周辺の問題として、別の観点からとらえ直す生き方へとヤコブは変えられたのです。ヤコブが、ヤボクの渡しで経験した出会いは、人生における決定的な意味を持つ出会いでした。

私たちの人生の中心軸は、神様との関係なのです。私たちもこの出会いの中で、生き方が変えられて行くのです。
(2002/09/22 講壇交換の日曜日) 

2002/09/27
光の子として生きる エフェソ5:6-20
(めぐみ教会での9月22日の説教)

 「光の子として生きる」という題で、「時を購う」「光である」「決断への招き」という三つのことをお話したい。

 「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」とある(16節)。「よく用いなさい」(エクサゴラゾー)は、「あがなう」「買い取る」という語である。「時」(カイロス)は、均一に計られる時計の時間ではない。旧約聖書コヘレトに「何事にも時があり、・・・生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、・・・」とある(3章)。そういった、他から区別される一つ一つの時である。「時は満ちた。神の国は近づいた」(マルコ1:15)、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」(ローマ13:11)と言うときの時である。

 毎日が正月、大学は遊園地、授業中に携帯電話のこの時代はまさに「悪い時代」である。悪い時代の中から、カイロスをあがなわなければならない。買い取らなければならないのである。

 来月(10月)13日(日曜日)に、ブラジル北東部のマッタ・デ・サン・ジョアン伝道所の開設式が守られる。石塚牧師夫妻が中会から派遣され、牧会者として就任する。中会議長の荒瀬牧師やアメリカから伝道局のワトキンズ牧師もこの式に出席される。話は40何年か前にさかのぼる。1959年の暮れに、高座教会の佐々木三雄さん一家が農業移民としてブラジルへ渡った。佐々木さんは、その年の三月に洗礼を受けたばかりのほやほやのクリスチャンだった。ブラジルの開拓地に到着し大地に立った時、佐々木さんは、自分には何もないけれども日曜日は主に捧げようと決心した。すべてはここから始まったのである。これが、時をあがなうということである。

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とある(8節)。かつてと今との間に、イエス・キリストを介して、はっきりした違いがつけられている。以前は遠く離れていた者たちが、今や、キリストにおいて、キリストの血によって近い者となった(2:11-22)。キリストにあって、だんだん輝いてくるのではない。その面もある。しかし大事なのは、今すでに光であるということである。だから、「光の子として歩みなさい」と言われるのである。

 小泉首相が北朝鮮を訪問し、北朝鮮に拉致された人たちの消息が発表された。拉致された人たちの多くが、すでに死亡していると知らされ、日本中に大きなショックが走った。国中が、北朝鮮の残虐を非難し日本政府の不手際を責め立てた。死亡者の中に、13歳で拉致された横田めぐみさんの名もあった。両親は、泣いた。深い悲しみの中で、愚かなことを語らず、「めぐみは、日本のために、北朝鮮のために、犠牲になり使命を果たしたのだと思っています」と語った。かつてマーチン・ルーサー・キング牧師は、「自ら招いたのではない苦難(unearned suffering)には、贖罪の意味がある」と言った。祈り会で信仰の友と、めぐみさんのために長い年月祈って来ためぐみさんの両親は、クリスチャンが弱さの中ですでに光であることを証ししたのである。

 「眠りについている者、起きよ。/死者の中から立ち上がれ。/そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(14節)。讃美歌の1節であろう。何もかも平板化された悪しき時代の中から、時をあがない、光の子として生きなさい。「あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:14-)。

(国立のぞみ教会牧師 朝山正治)


2002/09/03
懐かしき捜真

捜真バプテスト教会の教会誌にお求めに応じて投稿したエッセー

 この夏、桜美林が西東京大会で優勝し甲子園が決まったとき、また(礼拝で)桜美林の話を聞かされるのね、と言って妻が笑った。桜美林は戦後すぐいまの町田市[当時は忠生(ただお)村]に建てられ、その創立50周年の記念行事が昨年、都内のホテルで開かれた。その会で桜美林高校の同級生だった川井明氏に、ずいぶん久しぶりに出会った。わたしは桜美林が新制中学校として創設されたときの最初の一年生で、川井氏は高校からだった。背広を着ネクタイをつけた颯爽としたジェントルマンであった。創部間もない硬式野球部が都下の予選に出る時の壮行会などでは、チェアリーダーを買って出た。生徒会では、動議とかセコンドとか会議の運営に精通していて大人に見えた。捜真とかフェリスといったしゃれた名も、彼から聞いた。彼の周りには横浜のかおりが漂っていた。三年生の時の暮れだったか正月だったか、学園長がとつぜんICUを受験せよと四人の生徒を指名した。川井氏ともう一人が合格し、わたしともう一人が落ちた。

 先だって川井氏のおかげで捜真バプテスト教会の特伝にお招きいただきお話させていただいた。彼がよく話していた捜真はここだったかと、懐かしい感じがした。彼が楽しげに自慢げに話していたことが分かった気がした。あれから何十年もして、彼は教会の役員として、わたしは牧師として共に主に仕え教会の働きに用いられていることを、ほんとうにうれしく思い感謝している。

 話はちょっとそれるが、先日、わたしたちの教会の群れ(カンバーランド長老教会)が、I牧師夫妻をブラジル宣教に送り出す派遣式を守った。話はさかのぼり、1959年の暮れ、Sさんの一家五人が、農業移民としてブラジルに渡った。一家を乗せた船が横浜の港を離れて行くのを見送る教会の人たちの中には24歳のわたしもいた。サンパウロやリオデジャネイロから遠く離れた東北部の僻地にたどり着いたとき、コネも資産も学歴もない家長のSさんは、何をどこから始めたらよいのか見当がつかなかった。Sさんは、その年の春に受洗したばかりだった。その新鮮な信仰のなかで茫漠と広がる荒地に立ち、自分には何もないけれども日曜日は主に捧げようと決心した。すべては、ここから始まった。それから四十年以上も経って、わたしたちの教会は、Sさんが提供してくれた土地に教会を建てそこへ牧師夫妻を派遣することになったのである。ほんとうに、神様のなさることはすばらしい。わたしたちの全教会が、このことに心を打たれ、喜び、感謝している。

 日曜日を主に捧げると決心した者たちを通してなさる主の不思議なみ業を何十年も経ってから見ることができるのは、ほんとうにうれしく有難い事である。いまわたしは、エルサレムの神殿で幼な子イエスにまみえる幸いを得たシメオンやアンナの喜びが少し分かるような気がする。 

2002/08/21

蝶墜ちて

 蝶墜ちて 大音響の 結氷期

 この歌は、以前、朝日の「折々のうた」で目にした。その時の鮮烈な衝撃は、今もその力を減衰することがない。わたしの理解を、英語にしてみた。”A butterfly plunged/ into the frozen lake/ making an enormous sound.” 結氷する湖面に蝶が墜ちて、かさっとも音などしない。しかし、聞こえる。天下に鳴り響く大音響が。

この歌の作者の思いがどこにあったにせよ、この時わたしは、キリストの出来事を言い表すこれほどに簡明的確な表現はないと思った。

 それは、最初のクリスマスの夜の羊飼いたちの経験に重ねることができる。<すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高いところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」>(ルカ 2:13-14) イースターの朝空虚の墓を発見した女たちの驚きに重なる。<目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。>(マルコ16:4) あるいは、ヨハネ黙示録のビジョンとも響き合う。<わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。>(黙示録21:1-2

 使徒パウロもまた、大音響を聞いた人間であった。<人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、> この言葉で、彼は、火のような文書、ガラテヤ書を書き出す。

いま結氷の大地に耳を当てれば地鳴りが聞こえる。
何回かに分けて、ガラテヤ書を読む。はたして、時代を揺るがす大音響が聞こえてくるかどう。確かめたい。

カンバーランド長老キリスト教会日本中会「ぷれすびてりー」誌No.107( 2002/08/25)所載(一部修正)「小説教その1」より。なお、「ぷれすびてりー」が出るのは年4回ほど。次回は、暮れ頃。2002/08/21記]

追記
昨日、牧師仲間の読書会がN教会で開かれ、ミラン・オポチェンスキー著(小池創造訳)「悪の鎖を断て−世界改革教会連盟と21世紀の課題」(一麦出版社)を読んだ。そこに、次の一文があった。上記「小説教」の補足補強としてい引用させていただくことにする。

以下引用(83ページ):

 初代のキリスト者たちには、「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)という幻があった。しかしながら、わたしたちがもしこの幻を、ただわたしたちの個人生活のための望みとして考えようとするならば、危険な歪曲となろう。それは、わたしたちが自分の生活を用いて、この世代の人々や子孫のために、公正な社会を造り出すための社会的責任へと呼びかけるものである。終末論的な希望は、究極的には、神ご自身と神の統治にかかっている。そのような希望は決して空想的なものではなく、この世界と現代の歴史の問題と苦闘して取り組むように仕向けるものである。神の国は、変容を可能にする力であって、この世界の構造や諸制度、また諸領域に対決を迫り、審判をもたらすものである。


2002/05/27

女性の集いでのこと

 去る516日(木)、姉妹教会合同の「中会女性の集い」が開かれた。質疑応答における講師のお話の内容に聞き流すことのできない重大な問題があると思われたで、限られた時間の中で、強硬に抗議した。その日の夜そこでのことについて牧師諸兄へメールを書き送った。事柄の重大さを考え、あえて公開することにする。

牧師諸兄

中会女性の集いでのことについて、一筆申し上げます。

  近親者のために祝福を祈る、近所の人々の祝福を祈る、牧師のために祈る、信徒一人一人のために祈るというとりなしの祈りの実習の時が流れた。終わりよければすべてよし。よそから講師を招いての女性の集いは、物足りなくはあったけれども、なにか和らいだ心持ちで終了するところだった。ある人々にとっては、充分満たされたものとなったのかも知れない。そのまま終われば、よかったのかもしれない。

 その時、わずかに残された質疑の時間に、ひとりの女性が立ち上がり講師のO牧師に質問した。先生は講演の中で、東大の矢内原忠雄が、戦時中、信仰的信念に立って政府の対中政策に反対し大学を追われた話をされた。矢内原の例に照らし、いま有事法制が国会を通過するという状況にわたしたちはどう向き合うべきか。

 これに対して講師のO牧師は、教会の戦争責任が問われることが多いが、むしろ戦後責任こそ重大である。非現実的であることにおいて、社会党は自民党よりひどい(教会も同罪という意味)。教会は、清濁併せ呑むところがなければならない。靖国も君が代も、妥協の道はいろいろあったが、もうどうにもならぬ。遅すぎる。ここまできたら、成り行きに任せるほかないだろう、といった意味のインチキくさい政治の話を長々とされた。(細かいことは、テープが取ってあれば、それをもう一度聞いて確かめてみたい。)

 われわれは、ここで、催眠から覚めるのを感じた。

 われわれが聞きたいのは、政治の話ではない! 信仰の話である。とりなしの祈りをするキリスト者が、信仰者として、今日の状況にどう向き合うのか。それは、O氏が得意げに語る政治の話ではない。矢内原において、専門の領域についての学問的展開が問題になったとしても、ただ経済学の話が問題になったのではない。信仰に立つ一学徒として、信仰の良心に基づいて学問し、語り、行動したことが問題になったのである。その結果として、時の政府に対峙するに至ったのである。

O牧師において、祈りは、今日のわれわれが生きる現実の世界とは別世界でのできごとである。別の世界に没入することによって、われわれが現実にそこに生きるこの世界について、考え、悩み、苦しみ、祈り、行動することから解放されるのである。しかしそのようにしたからといって現実の世界が無くなってしまうわけではないので、現実の世界について語ろうとするときには、信仰とは関係のない次元のこととしてこれを取り上げ、延々とうとうと語ることができるのである。信仰深い装いを持つ者が、実態において、いかに世俗的であるか、いかに俗っぽいかを如実に示す一つのよい例であった。

ヤコブ書1章による瞑想の時の後の質問者の発言へのO牧師の俗悪極まる応答に対しての小生の批判的発言は、聖書の言葉の直接的利用を手段とする人たちから見れば、大いに非難されるべきものであったかもしれない。小生も、限られた時間の中ではあっても、心を鎮め冷静に説得的に語りえたのではないかと、いまも感情の高まりを抑え切れない中で、考えてもいる。

現実の世界を別のところに置いたとりなしの祈りの催眠の中で、牧師をはじめ、教会の善男善女が、この終わりのときに、覚醒することなく、偽りの安らぎと和らぎの中にまどろむことをもって平安・平和とするのを、牧師諸兄、どのように受け止めておられるのだろうか。いつか、ひとりひとりからお話を聞きたい。できれば、O牧師の講演のテープを起こし、それを間において、お話をお聞きしたい。

朝山正治

聖霊降臨日直前の
2002/05/16 midnight

追伸

 とりなしの祈り即催眠というのではない。そこでの安らぎをすべて偽りの平安・平和というつもりはない。終わりから見れば、それが偽りかどうかがはっきり見えるのである。今回の場合、一人の姉妹の質問。それは、せっかくの安らぎを妨げるdisturbing なものだった。いや、正当な答えを与えられなかったがために、disturbing なものとなったのである。


2002/04/28

杖一本 (有事法制にNO!)
マルコ福音書 6:6b-13

どうしようか。何かしなけりゃ!

そう思いながら、朝早く、目を覚ました。

「ひとりデモ」はじめるか!

大変だァと思っている人は、大勢いる。

だれかが始めるのを待っている人もいる。

大勢、大勢いる。それは確かだ。

ぼくも、そのひとりだ。

だが、ただ待っている時は過ぎた!

ひとりでも、街に出よう。

若者よ、街に出よう!

「有事法制にNO!

 

<旅には杖一本のほか何も持たず。

パンも、袋も、

また帯の中に金も持たず、

ただ履物は履くように、

そして「下着は二枚着てはならない」

と(イエスは)命じられた。>

(マルコ6:8-9

この言葉を、

日本の現下の状況のもとで聞いている。

 

あれがなければ、

これがなければ、

手も足もだせないというものではない。

杖一本あればいい。

(マタイやルカでは、杖も不要、とある。)

 

杖と言っても、デパートで買う

しゃれたステッキではない。

そこいらに転がっているただの棒だ。

地面に挿しておけば、芽が出てくる

ぼーっ切れのことだ。(民数記17:16-

 

ぼーっ切れに、「有事法制にNO!」と貼って、

ひとりデモ、街に出ようと思う。

(ふたりデモ、もちろん、かまわない。

12人なら、もっといい。とにかく、

ひとりデモ、はじめよ!ということだ。)

<平和を実現する人々は、幸いである。

その人たちは神の子と呼ばれる。>(マタイ5:9


2002/03/24 棕櫚の日曜日
あぁ、ロバに乗る王
マタイ福音書 21:1-11

唐澤健太神学生による奨励(要旨)

 先日、『ガンジー』という映画を見た。人種差別撤廃を非暴力運動によって進め、「塩の行進」で知られるあのマハトマ・ガンジーの映画である。M.L.キング牧師は、このガンジーから非暴力的抵抗の精神を得た。キング牧師はガンジーのことを

 「ガンジーはおそらく、イエスの愛の倫理を単なる個人間の相互作用から、大規模な仕方で強力かつ有効な力へと高めた、歴史上最初の人間ではあるまいか。」と著している。

 映画を見ながら、ヒンズー教徒のガンジーとイエスが重なって見えたのはいけないことだろうか。私は、ガンジーの歩みは、イエスの歩みに極めて似ているのではないかと思わされた。大英帝国の支配に苦しむ民衆。カースト制度という身分差別による抑圧。その中でガンジーは黙っていることはできなかった。そしてその歩みは多くの民衆を惹きつけていった。

 イエスはガリラヤの寒村で育ち、ローマによる圧政があり、宗教的差別があり、何かがおかしい社会に黙っていることはできなかったのではないだろうか。そして、「神の国」の福音を貧しい人々に告げ知らせ、傷ついた人々を癒し、旅をされた方ではなかっただろうか。

 そのイエスがついにすべての中心地エルサレムへ入る。それが今日の場面である。民衆は大いに喜び、叫び声をあげて新しい「王」を迎え入れた。棕櫚の葉を道に敷き「ダビデの子にホサナ」と言いながら。しかし、私たちは知っているのである。数日後に同じ民衆がイエスを「十字架につけろ」と叫び声をあげるのを。

 抑圧された民は「王」や「救い主」を求めるものだろう。アフガニスタンやパレスチナの人々は自分たちを様々な束縛や抑圧から解放してくれる者を歓迎することだろう。力を持って自分たちの生活を解放してくれる王を求めるだろう。私たち自身も同じような思いがあるのかもしれない。それは、自然な叫びであろう。しかし、イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入られたのである。軍馬ではなく柔和の象徴である、ろばに乗って。

イエスの周りには、武力を持って自らの解放を勝ち取るために立ち上がった人々もいた。また、世から離れ、修道生活を送り、「救い」を求める人々がいた。イエスはこのどちらでもなかった。世の中の中心であるエルサレムへガリラヤの田舎から出てきた。そして、その手には何ももっていなかった。しかも、ろばに乗ってエルサレムに入られたのである。そして、その歩まれた道は十字架へと至るものだったのだ。

「いったい、これはどういう人だ」、民衆が発した言葉である。この言葉が今の私たちに鋭い問いを突きつける。ガンジーには多くの映像や記録が残されている。比較的正確に、リアリティーをもってガンジーの実在に迫ることができる。しかし、私たちがイエスを知るには聖書を読むしかない。聖書をどう読むかが今の私たちに問われるのである。聖書を通して語られるキリストをどのような方だと私たちが告白するのか、どのようなイエスを読み取るのか、である。

私たちの求める「救い主」はどのような方なのだろうか。今、私たちはこのエルサレム入場の記事のどの役を担っているのだろうか。私たちは、ろばに乗る真の王を、馬に乗る「王」として見ていないだろうか。自分の都合に当てはまる「救い主」を求めていないだろうか。イエス・キリストは民衆の意に反し十字架へ進まれた、ろばに乗った王なのだ。

今こそ、私たちは、ろばに乗る王に気が付かなければならない。憎みと復讐が支配する世界にあって、ろばに乗り、十字架へと歩まれたイエス・キリストを私の王として向かえなければならない。今日から始まる受難週の時、十字架へと歩まれ、愚かに殺された王の歩みを見つめなおそう。そこに私たちの救いがあるのだ。


2002/03/08

愛か、憎しみか

FORUM に、sakurakaidoさんが次のようなコメント(赤色)を寄せてくださいました。全く同感です。ここに転載します。マーチン・ルーサー・キングの「わたしには夢がある」”I have a dream!”の道をとるか、ブッシュの「悪をいぶり出す」”smoke out the evil”の道をとるか、アメリカはいま別れ道に立っている。わたしたちをつき動かしているものは何か。愛か、憎しみか。いま、教会の暦は受難節。イエスの歩まれた十字架の愛の道を辿って行く季節です。

以下、skurakaido さんのコメント:

< 日本基督教団出版局から出た『マーチン・ルーサー・キング自伝』(梶原寿訳)を少しずつ読んでいます。今のような状況にあって、彼のstand by the bestという言葉がことさら強く胸に響いてきます。ちょっと長くなりますが、以下に引用します。
 私はミシシッピーでも……ベトナムでも、だれをも殺すまいと思う。また私はもう戦争のことを学ぼうとは思わない。……どのような黒人や白人が私を批判してもかまわない。私は最善のことに固執するだけだ。ある立場に立つと、臆病心が「それで大丈夫かと問う。便宜心が「それで政治的か」と問う。虚栄心は「人気はどうか」と問う。良心の問う事柄は「それは正しいか」ということである。そしてイエス・キリストの真の随従者は、安全でも政治的でもなく、また人気もない立場であっても、ただただ正しいがゆえに、その立場を取らなければならない時がある。…私はこの悪しき時代に、最善の事柄に固執したいと思う。
(ジェームス・コーン『夢か悪夢か』334頁より)



2002/03/05

若者よ、問え

アメリカの正義が、まかり通っている。

 

あなたもそこにいたのか、

アメリカの正義が

目の前を通過して行ったとき。

 

9.11への過剰にして不法な不当な報復。

座視するしかないのか。

報復が、さらなる報復を生むのを

見物していれば、それですむのか。

若者たちよ、

街に出よ。

大国のほしいままなる暴力に

No! を言える者が、

いま、この国に

若者たちよ、

あなたがたをおいて

いるだろうか。

 

若者よ、

街へ出よ。

わたしも、言ったからには、

出て行く。

みんなの後について、

出て行く。

 

若者よ、

街に出よ。

二十一世紀は、

あなたがたのものだ、

あなたがた自身の世紀のために

街へ出よ。

 

アメリカの反撃の過剰と不当を、

検証せよ。

1945728日。

土曜日、朝949分。

9.11に酷似する事件が起こった。

ところも、ニューヨーク。

あの世界一の超高層ビル、

エンパイア・ステート・ビルディングの

地上915フィート、78,79階の部分に

濃霧で視界を失った

米軍の双発爆撃機B25が突っ込んだ。

ビル全体に大音響と共に激震が走った。

火災が発生し、78,79階部分を焼失した。

が、それ以上の類焼は免れた。

死者13人、負傷者26名。

ビルの構造体は、激震に耐え、

その堅牢な姿を今に留めている。

 

1945年といえば、

その年、8月。

ヒロシマ、ナガサキ、そして日本の敗戦。

ニューヨークでは、戦勝パレード。

紙ふぶきが舞った。

爆撃機の衝突事故を記憶する者は、

あちらにもこちらにも、

ほとんどないかのようである。

 

ニューヨーク・タイムズ紙の

一面記事で辿る1920-1986

“The New York Times - ONE PAGE -

Major Events 1920-1986 as Presented in

The New York Times”

をめくっていて、上の事件を知った。

9.11からしばらくしてのことだった。

 

9.11は、事故ではない。

テロである。

だが、あの数千人の人命の喪失と、

二棟の巨大ビル崩落とそれに伴う空前の災害は、

必ずしも、テロがもたらしたものではない。

テロ側は、思わぬ戦果に歓声を上げたことだろう。

しかし、あの大災害は、

アメリカ自らが招いたものだ。

ケーキに当てられたナイフのように、

飛行機は、WTCの二棟の建物に

すっと入って行き、炎上した。

WTCは、自らの重量を支えきれずに、

もろく崩落して行った。

責めを負うべきは、脆弱な現代文明、

その申し子とも言うべきアメリカそのものだ。

 

自らの責任を隠蔽するために、

ブッシュ政権は、過剰な報復、

不当な戦争を仕掛け、

いまや、ますます戦線を拡大し、

アメリカの正義に同調しない者を

抹殺しようとしているのだ。

 

若者よ、

アメリカの正義は、正義か。

この問いを、問え。

 

アメリカは、暫定的な勝利をおさめるだろう。

アメリカの正義を正当化するための

人道に反する不法な戦争

死の商人たちを活気付ける戦争を

続けるだろう。

若者よ。

どうする。

傍観するだけでいいのか。

あなたの正義は、どこにあるのか。

 

9.11は、現代文明の脆弱さを

世界中の人々の眼前に露呈して見せたのだ。

9.11以降を、あなたは

どう生きるのか。

若者よ。

自らに、問え。

 

2002/03/05


2002/02/18

一神教か多神教か

 宮崎駿監督のアニメ「千と千尋」がベルリン映画祭最高の「金熊賞」を受賞したという。「金熊賞」が何であるかわたしは知らないけれど、大変に大きな賞であることは間違いない。NEWS23の筑紫さんが、先ほど、このことに触れて次のように語っていた。

「『千と千尋』は、主人公のこどもが、八百万の神の世界に迷い込んで行く物語。多神教の物語が一神教のヨーロッパ人に認められたのは興味深い。イスラム教もユダヤ教もキリスト教も根は一つの一神教だ。一神教は、正義と悪をはっきり分ける。来日中のブッシュ大統領も、その線上にある。宮崎監督は受賞の感想の中で、盆と正月とクリスマスが一緒にきたようなものだ、と言った。仏教、神道、キリスト教が一緒になったようだ、という意味にも取れる。『悪の枢軸』を唱える一神教のブッシュに対して日本の小泉首相は、別の(多神教の)あり方を示してもいいのではないか」

 一神教と多神教のこのような区別の仕方は、最近よく耳にする。中曽根さんや石原さんなども、盛んに言っている。

 確かに、そういった面がある、と言ったほうがよいのかも知れない。ブッシュ大統領の振る舞いなどを見ていると、そう言われても仕方がないと言わざるを得ない。

 しかし、聖書の神、唯一の神についての大きな誤解が、筑紫さんたちにはあると思うし、何よりも、キリスト教を標榜する多くの人たちにあると思う。

 そもそも聖書の神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われるように、一人一人の神なのだ。「モーセよ」「エレミヤよ」「ペテロよ」「サウロよ」「マリアよ」と一個一個の人間、小さな人間、弱い人間に呼びかけられる神なのだ。それが、いつのまにか、部族の神、民族の神、王の神、国家の神、西欧・アメリカの神に変容させられてしまったのだ。まさにブッシュは、神を、そのような神として、民族統合の神、欧米のアイデンティティの拠りどころとしての神として、祭り上げ、信奉し、利用しているのである。アメリカの教会の大きな部分も、これにだらしなく追随していると言える。これが、悲しいことであるけれど、今日の「キリスト教」の一般的状況なのである。

 多神教が、では、これに優るかと言うと、決してそうではない。中曽根、石原の名を上にあげたが、彼らは、多神教を束ねて一つとし、それによって日本人のアイデンティティの支柱としようとしているのである。「国家神道」の小泉首相が変にブッシュ大統領と気が合うように見えるのは、多神教と一神教の暗黙の協定(黙契)を結んでいるからである。ここでは、多神教も一神教も、見かけほど違ったものではないのである。いや、同じだと言っていい。ブッシュにとって、明治神宮参拝は、自然の成り行きであったはずだ。

われわれには、国家の宗教、民族の宗教、あるいはさらに言えば、勢力としての宗教、の神に興味はない。それは、われわれの神ではない。一人一人の神、小さな、弱い者たちの神の復権こそが、福音の宣教の火急の課題と言わなければならない。IPCC とは、まさに、このことに向けての証しであり運動である。イエスの神は、国家の神ではない。民族の神ではない。ある特定の群れの神ではない。一人一人の神である。一人一人をパーソンとする神である。新しい人類共同体は、この神との出会いから始まるのである。

2002/02/18 深夜   


2001/01/25

神の国を求めなさい 

― 信仰のかたち・教会のかたち ―

車に形がある。舟に形がある。飛行機に形がある。

前に向かって移動する形をしている。

大学通りの天下市で皮製のペンケースを買ったら、

袋に入れてくれた。(もう、何年も前のことである。)

“Form follows function.” と書いてあった。

「形は用途で決まる」

「用途が形を決める」

信仰のかたち、ということを考える。

わたしたちの信仰は、

どこを向き、どんなかたちをしているか。

信仰のかたちが、教会の形にあらわれる。

テーブルに積まれた整理中の書類の中に、

「教会形成」という題で書いた

「プレスビテリー」誌の古い記事があった。

1981年の時点で、1964年の夏に行われた

この教会の献堂式で語ったメッセージを回想しながら、

次のような青い文章を書いている。

 

<われわれが生きるいまの時代を、

どのような時代としてとらえるか。そして、

その中に生きるキリスト者として、

教会として、

われわれはどのような証しを立てて行くのか。

このことを真剣に問うことなしには、

教会を形成していくことはできない。

右傾化と保守化の進行する日本において、

戦後が終わって戦前が始まろうとするような

雰囲気の中で、

われわれが伝道ということを言うときには、

時代のすう勢に合わせて、

大きくなろうという希望をいだくよりは、

むしろ少数者になる勇気をこそ

求めなければならないのではないか。

ブルーダーをもう一度引用するならば、

「私たちは、正しい教会になることが

一番重要な問題なのだ。」

このような認識に立って、教会を形成し、

伝道の体勢を整えていくのでなければならない。

・・

少数者になる勇気と、

すべてのものにみことばを宣べ伝える使命とは、

矛盾するものではない。

伝道は、少数者になることを目的とするものではない。

ただ、そうならざるを得ぬときがある、

ということである。

伝道とは、人々の幻想を打破し、

神の真のみこころを示すことである。

真の救いの道をこの世に宣教することである。

広範かつ深刻な現代の危機の中にあって、

キリストだけが唯一の希望であることを

教会は、この世に宣べ伝えて行く。

そのことのために

教会を整えるのである。>

 

 

変わらないものだ、と思った。

よかったのか悪かったのか分からない。

みんなのニードにすぐに間に合うものでなかったことは、確かだ。

「信徒の友」に、<・・・信仰者はイエスにならって、

正しさより相手のニードに心を傾けるべきです。

人生の収穫が増すこと間違いなし。

信者と書いて儲かるという字になるし。>という記事があった。

だれかに煎じて飲ませたいような記事だが、ムリだ。

わるいけれど、

青いまま、

熟成することなく、

終わらせていただこうと思う。

<ただ、神の国を求めなさい。

そうすれば、これらのものは加えて与えられる。

小さな群れよ、恐れるな。

あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。> ルカ福音書 12:32



2002/01/14

「地には平和」を読んで - pine

フォーラムからの転載です。次項に、pineさんへのレスポンス

も記入します。(レモンのロゴ、近日中に載せます。m.a.

 

ipcc talk(2001年クリスマス「地には平和」)を読ませていただきました。ジョン・レノンの「イマジン」を中心に、一人ひとりの平和への願いの輪を広げてゆきたいという、熱い思いが展開されていて、私にも強く共感するところがありました。

 教会・宗派・宗教などは、人が自分たちの信仰を守り、団結し、多くの人に伝えるために作り上げたものだと思います。しかしそれが、現世に力を持ち、権力を手にしはじめたときから、すべての人を、「上向き」の階層構造に組み入れようとする、圧力に変貌してしまったことも事実だと思います。そのような構造を取り去り、「神と人との直接の関係」に立ち返り、そこから生まれる、人と人との結びつきを取り戻そうとすることがとりもなおさずipcc の精神なのだと思いました。

ところで、論旨のなかで、教会自体がバベルの塔になってしまっていて、教会をそのような存在から変革しなければならないという点で、ジョン・レノンのイマジンが大きな力になっているということには同感です。というより、既成の構造に縛られて、お互いに反目しあうのは信仰というものからかけ離れたことだと思います。

 ここで、一言だけいわせてください。ジョン・レノンは決してテロリストではないということです。もちろん、そいうつもりで「ジョン・レノンの自爆テロ」と書いたのでないことはわかっていますが、この言葉は文脈の中で

非常に違和感を感じさせます。彼は決して「教会を破壊しよう」という意思をもってイマジンを書いたのではなく、彼の感性のおもむくままに「そっとつぶやいた」だけではないでしょうか。確かにその「つぶやき」は強い説得力をもって迫ってきます。聴いた人がそれに触発されて、そうした具体的な行動にでることがあっても不思議はないでしょう。率直で的確な感性の表現はテロよりはるかに大きな破壊力をもつことがあるのは確かです。しかし、バベルの塔がもし壊れたとしたら、それは「ジョン・レノンの自爆テロ」によって壊れたのではなく、それ自体の自重に耐えかねて崩れた、いわば、神の摂理ではないでしょうか。もっとも、まだ完全に破壊されているわけではないと思いますしそこに、これからの ipcc の戦いがあるのかとも思います。

「つぶやき」の輪を広げるだけの戦いかもしれませんが・・・それでも十分だと思います。

 ipcc のフォーラムで皆さんが真剣に、活発に議論しているのを見せてもらいました。多くの賛同者が ipcc を支えて、まじめに話し合う姿に共感を覚えました。これからも、ときどき訪問します。

pine
  2002/01/07

 

 

Lemon で行きます

pine さんの、「ジョン・レノンの自爆テロ」には違和感を感じるという指摘。深く受け止めています。もちろん、pineさんも認めるように、レノンの衝撃の大きさを比ゆ的に言ったもので、自爆テロを容認しているわけでは全くありません。

この間の十五歳の少年の自爆も、悲しい出来事です。彼のほかに死者がでなかったことを、少年のためにもよろこびたい。それにしても、少年をあそこまで思い詰めさせるこの時代の問題の深刻さを思います。少年のようにひそかに自爆テロを準備する者たちが、いまも少なからずいるのかも知れません。

テロはいけません。自爆テロは、いけません。人の命を損なうことを考えてはいけません。絶対に、いけません。声を大にして訴えたい。No More Violence! No More War! 

わたしは、ジョン・レモンで行こうと思います。

 Lennon の真ん中の nn をつなげて、一本抜くと、m になる。

レモンは、英語では、あいつはかすだ、一本足りない、という意味で使われたりもするようです。ますますありがたい。

小さく弱い者たちよ、梶井基次郎の「檸檬(れもん)」で行きましょう。どこへ行くにも、レモンを一つ懐に入れて出かけましょう。それを、行く先々に、そっと置いてくるのです。

m. asayama 2002年正月



2002/01/06

宗教の見直し マルコ福音書 2:23-3:6

 文明の衝突、とりわけ宗教に根を持つ文化のぶつかり合いは、経済やテクノロジーにおける止め難いグローバル化の進展と逆比例的に働く最も厄介な問題として、二十一世紀前半を生きるわれわれの前に立ちはだかるであろう。

 宗教の見直し。今日、これこそ、人類火急のテーマである。

 ジョン・レノンは「イマジン」で、宗教などいらない、と歌っている。単純に宗教を否定しているのではない。戦争を引き起こす宗教など必要ない、と叫んでいるのだ。彼の歌う「マザー」という歌をいちど聴いて欲しい。お袋よ、どうしてオレを捨てたんだ。親父よ、オレは親父が必要なんだ、なのになぜ行ってしまったんだ。しょうがない。グッバイ。さよなら。・・・お袋よ!親父よ!帰ってこいよォー!と振り絞るように歌う。母親に早く死なれ、父親には捨てられたレノンの、韓国語で言う「ハン」(恨)が切々と歌われている。母と父に別離を告げながら、闇の中で、マザー、カムバック!ファザー、カムバック!と叫びつづける。それが、彼の無神論であり反宗教である。

 イスラム教であろうと、仏教であろうと、キリスト教であろうと、テロで何千人も殺したり、大量殺戮の爆弾を何発も投下してまだ物足りない顔をしている連中の宗教など、どんなに偉そうなことを言っても信じることは出来ない。そんな宗教は、断じて必要ない。キリスト教がそのような宗教なら、わたしはキリスト教をやめる。

 宗教の見直しは、今日火急のテーマである。

 キリスト教を見直すところから始めなければならない。罪、罪と、自分の罪を敬虔に告白する人たちの罪とは何か、お伺いしたい。いったい、どんな罪を神さまに赦していただいているのか、お伺いしたい。罪を赦していただいて、どんな生き方をしているのか、お伺いしたい。

 <ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。>

 ファリサイ派にとっては、安息日に麦の穂を摘むことが、重大な律法違反であり、罪である。彼らの宗教は、そういった宗教である。彼らの理解する安息日の聖別とは、そういうことである。これに対してイエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われた。

ここに、二つの全く相反する宗教のかたちをみることが出来る。

ファリサイ派の宗教は、長い歴史の中で、原点から大いにそれて行ってしまった宗教である。安息日は、古代において、奴隷や家畜や寄留者たちの「人権」回復の時だった。モーセの十戒(出エジプト記20:8-11)に明記されている。自分の目で読み自分の頭で考え自分の心で感じない彼らは、これを見落としているのである。

 国立のぞみ教会の今年の年題は、「神の国を求めなさい」である。「神の国を求める」とは、「人間の国を求める」ということである。聖書の宗教は、人間が人間として生きる共同体の形成を目指す。これを阻む宗教など、わたしたちは信じない。        

                                       (1月6日 新年礼拝説教要旨)

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