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m. asayama
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2004/10/17

人間を返せ


創世記
11:1-9  マタイ福音書6:5-15
めぐみ教会週報(2004/10/17)所載(先週説教要旨)
これよりも先、九月には、9.11を回顧し、
同内容のお話を他の教会sでもした。あさやま

この夏、かねてうわさに聞いていたアニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」をテレビで見ました。多摩ニュータウンの造営によって住処を失う狸たちの人間を相手にした戦争の物語です。たぬき知を尽くし化け学を駆使して戦いますが所詮勝ち目はなく、「野を返せ。里を返せ。山を返せ。」と空しく叫びながら消滅して行くほかありません。引退後、国立からちょっとした森の名残をとどめている多摩ニュータウンのはずれに引っ越してきたわたしたち夫婦にはとても身につまされる物語です。今年は、異常気象のあおりで食糧難に陥った熊たちによる同時多発のゲリラ戦が日本中で発生してもいる。(人間本位の)現状からではなく(創造の)原点に立ち返って物事を見直さなければならない差し迫った状況(危機)に立ち至っていることを痛感します。

 聖書のはじめのところに書かれている、アダムとエバの楽園追放、ノアの方舟、バベルの塔の記事は、神の創造のみこころから逸脱した人間の文明の限界と終焉を描いた物語です。そこでは、罪の問題が、個人の実存の問題としてだけではなくて、人間の文明と歴史の問題として語られていることを見過ごすわけには行きません。

 さて、バベルの塔の物語を思わせる9.11の事件から2年が経ちました。事件発生直後、ブッシュは、”War!”と叫び、熱狂する国民の圧倒的な支持のもとに、相次ぐ二つの戦争を始めました。国中が星条旗一色に塗りつぶされ、”God bless America!” の大合唱が始まりました。いまや唯一の超大国となったアメリカは、強大な軍事力を背景にして、世界に帝国の一元的支配を敷こうとしているかに見えます。コイズミの日本は、これに真っ先に追随しました。君が代、日の丸の強制、首相の靖国神社参拝強行等々、戦前復帰の最近の流れに沿ったものです。ことがあればたちまち「一億一心」ということになりそうです。アメリカにおいてもこの国においても、民主主義は名目だけのものになり、全体主義の別名と化した観があります。民主主義の主体であるはずの人民の側に、傲岸無恥な権力を批判しこれに立ち向かう意欲も力ももはや残されていないかのように見えます。

 バベルの塔の物語は、<世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。>という文章で始まります。なんと便利で機能的な世の中でしょう。文明は発達し、人々は天に達する塔を建て始めました。しかし、やがて言葉は通じなくなり、塔の建設は頓挫し、人々は全地に散らされて行きました。

 人間を、帝国の一元的な統合と支配から解放しなければなりません。バベルの塔の物語と対比されるのは、ペンテコステの出来事です。天から、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。パーソン(個々人)の誕生です。教会の誕生は、パーソンの誕生の出来事です。聖霊の注ぎを受けたパーソンは、「私生活主義」に埋没して行くのではありません。新しい人類共同体を形成していく主体となるのです。

 イエスは、教会の祈りとして主の祈りを与えられました。それは、みんなといっしょに祈る祈りです。しかし、それだけではありません。一人一人のパーソンが、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈る」祈りであることが強調されなければならないでしょう。新しい人類共同体は、そこから形作られて行くのです。

人間(パーソン)を返せ。ここに、神の国の福音の宣教があるのではないでしょうか。



2004/08/26

国立のぞみ教会献堂40周年を記念して
<のぞみを失わず>
<四十年を経て>

「40周年記念誌」掲載

のぞみを失わず

 21世紀は、その出だしのところで大きく躓いてしまった。引退した人間には、こたえる。せめて9.11以前であれば、少しは未来に希望を抱きつつ去って行くことができたのではないか。

 40周年記念誌の原稿を一つ書き終えて心がはれない。つらい。

 <為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失はず>と文語訳で覚えた聖書のことばと、<しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。>と口語訳で覚えた聖書のことばが、どこからか聞えてきた。涙が出そうになった。「土の器」なのだ。はじめからおわりまで、土の器なのだ。何十年経っても、土の器は土の器なのだ。どこかの陶器や磁器に変わることはないのだ。そう思うと、胸が熱くなったのである。もろい土の器に尊い宝をいただいている。

 文語訳の聖句は、12歳でキリスト教の中学校に入ったときに覚えた。戦争で一切を失ったところから「のぞみを失わず」をモットーに始まった学校だった。伝道所時代につけた「のぞみ教会」の名は、そこからとった。

 心の中で、主の祈りを唱え、讃美歌(旧)234A <昔主イエスの 播きたまいし> と228 <ガリラヤの風かおるあたり> を主題歌のように歌ってきた。「来たらせ給え 主よ、御国を」が、わたしにとって宣教のテーマだった。

 神の国は、歴史の延長線上に、科学や文明の発展の成果として、地上にもたらされるものではない。それは地にあって天が地にきますようにと祈り求めるものである。神の国は、祈りの中にある。祈ることの中にある。

 その祈りの中で、今生きる歴史が、神の国と神の義を映し出すものとして一歩でも二歩でも前進することを希求するのである。

 たとえば、戦後この国が手に入れた憲法九条は、歴史の前進を具体的に証しするものであった。しかし、九条の形骸化は急速に進み、いまや改憲が時間の問題となった。戦後60年の歴史はにわかにストップし、否、逆方向に向かって歩み出し走り出す情勢である。わたしは、ひとりで怒っている。怒る資格がないと自覚しながらいかっている。だから、いらだっている。おろかな話しである。

 「土の器」ではないか。四十年の荒野の彷徨の後に今一度四十年の荒野の旅に出るのであれば、それでいいではないか。みんな「土の器」なのだ。これからも、「土の器」なのだ。しかし、「土の器」に宝が納められているのだ。それが、教会である。ほんとうに有り難いことである。<為ん方つくれども希望を失わず>をもう一度新しく聞くところから始めればいいのである。
2004年夏 国立のぞみ教会「40周年記念誌」寄稿2)

四十年を経て

 テレビで韓国の連続ドラマ「美しき日々」を見ている。スター俳優イ・ビョンホン演じる主人公ミンチョルは、いまや隆盛を極めるレコード会社ヴィクトリーの社長の御曹子である。父の築き上げた巨万の富を後ろ盾にしての自信溢れる機敏な行動で周囲の信望を集め羨望の的である。前途には洋々たる未来が開かれているように見えた。しかし彼の知らない、父の過去、への復讐が始まっていた。ライバル会社の社長を殺し会社を乗っ取って築き上げたヴィクトリーの実態が暴かれるときがきたのである。真っすぐなミンチョルは、絶望の号泣の後に、会社も家もすべてを捨て、まだ何も知らない妹を引き連れて外国へ逃れて行こうとする。しかしスキャンダルのニュースは、空港で兄と二人で離陸を待つ妹の耳に達することとなり、逃避行の計画は頓挫の雲行きである。ミンチョルは真正面からどうこの難局に取り組んで行くことになるのか。次回が待たれる。

さて、21世紀は出だしのところで大きく躓いてしまった。われわれの地点から見えるのは、9.11とブッシュのアメリカの倣岸愚昧な対応であり、それへのコイズミ日本の無恥な追随である。

アメリカは、明るく親切で善意に溢れた人たちの国である。灯火を高く掲げて立つニューヨークの自由の女神像は、ヨーロッパの人々をはじめ世界の人々に大きな希望を与え続けているように見える。しかし歴史をみれば、アメリカの今日は、先住民の殲滅ととその土地収奪、黒人奴隷の輸入と酷使、戦争による領土の拡張と冨の集積、の上に成り立ったものである。他方、戦後の日本は、アメリカの庇護の下に発展してきた。ありていに言えば、アメリカの食べ残した腐肉をあさって肥えてきた。朝鮮戦争のとき然り。ベトナム戦争のとき然り。湾岸戦争でもおそらくそうだった。いま親分アメリカからその落とし前をつけられているのだ。だから、イラク派兵、憲法改変も、断ることができない。

 これが、われわれの地点で見ることのできる歴史の断面ではないかと思う。これを直視する勇気があるならば、すでに歴史の復讐が始まっていることを看過することもできないと思う。

 父親の犯罪を知ったミンチョルは、これから先、どのように生きて行くのか。どのようにこの状況を打開し危機を克服して行くのだろうか。同じ問題がわれわれに突きつけられている。

 欧米を経由して伝播されたキリスト教の悔い改めの本格的な証しが始まらなければならない、と思う。それは、プロテスタント教会としては、宗教改革以降の教会の罪を誠実に告白する広範な証しとして始められなければならない。罪を、個人の内面の問題として告白するのはやさしい。罪を、教会の歴史における罪として告白するのは、容易なことではない。しかし、和解の務めを委ねられている教会が、教会の罪を告白することなしに、21世紀を生きて行くことはもはやできない。どのようにそれをするかは、決してやさしい問題ではない。しかし、われわれのキリスト教は、大筋において間違っていたのだ。間違いを認識し認めるところから始めなければ、何も始まらない。

 モーセは、40年、荒野を彷徨した。献堂40年の後に、もう一度振り出しに戻って荒野の道を歩みはじめるのはつらいけれども、それでも、もういちど振り出しに戻って歩み出す以外に教会の証しはないのではないか。為すことの少なかったことを悔いつつ、このように思っている。
2004年夏 国立のぞみ教会「40周年記念誌」寄稿1)



2004/08/09
平和を求めて
めぐみ教会「めぐみフォーラム」誌
夏号(特集「平和」)所載


 <民主党の岡田代表は29日(日本時間30日未明)、ワシントンで「新しい日本と21世紀の日米関係」と題して講演した。「憲法を改正して、国連安保理の明確な決議がある場合、海外での武力行使を可能にし、世界の平和維持に積極的に貢献すべきだ」と述べ、国連の下での武力行使を容認する考えを表明した。>

 きょう2004730日の朝刊(朝日)一面の左端にさりげなく掲載されたこの記事を目にして大きな衝撃を受けたというひとは最早殆どいないのではないか。ついにそこまで来てしまったのではないか。「二大政党」は、競ってアメリカのご機嫌を伺いながら、いまや改憲の是非ではなく、一足飛びに、改憲の中身の差異を公然と論じているのである。言うまでもなく改憲の目的は、九条の改変にある。これを押しとどめようとする意志と力の結集を顕在化するチャンスは少しでも残されているのであろうか。

 大江健三郎さんら九人の有識者たちが、先ほど、「九条の会」を立ち上げた。しかしそれはどこか、囲碁で言えば、負けた勝負の形作りのようにも見える。大江さんとは、月も同じ同い年である。だから若い頃から失礼して大江さんを自分の年表の目印にしてきたところがあるけれども、その流れが終盤にきて形作りの形勢であることに、同列において見ているわけではもちろんないけれども、わがこととして憐れを禁じえないのである。

 大江さんは、雑誌「世界」(8月号)に、<あらためて「窮境」(プリディカメント)より―教育基本法、憲法のこと>というエッセーを寄せ、いま<九条の会>を呼びかける理由を述べている。

 <1947年―私は十二歳でした―、前年に公布されていた憲法の施行と、教育基本法の公布・施行は私ら子供にも重要なものだった。あれ以後、それを胸のうちに担って生きてきたように思う>と書いている。大江さんのすごいのは、十二歳で、教育基本法をノートに書き写し、ポケットに入れて歩き、何度も読み直し、ある部分は覚えてしまったほどであることである。大江さんは、憲法と教育基本法を基盤として生きてきたのである。そしてその両方がいま失われようとしている。

 <それでも長くはない余生を生きるとして、その自分はどういう生きものであるかと私は考え、W.B.イエーツの「おかしくなった老人」、それもひたすら怒りによっておかしくなっている自分を、生なましく思い描いたわけなのでした。/しかし数日たつと、イエーツ晩年のいつまでも怒りの声を発し続けている詩集を再読したりするうち、「おかしくなった老人」らが死んで行った後のこの国で行き続けねばならぬ若い人たちに、いらぬお世話かも知れないが、自分もまた若かった頃、憲法と教育基本法をどのように受けとめたかを話しておくことにしよう、と思い立ったのです。>

 <話しておくことにしよう>というのが、形作りではないかと思わせる具体的な箇所である。それは、説教者である自分が及ばずながら語ってきたことも、それほど大げさに考えるほどのものではないにせよ、結局はそのようなものであったのではないかと考えさせるに十分なことばであり、実に虚無的な気分にさせられるのである。アフガニスタンの農民たちと一緒に荒野に井戸を掘り用水路を造る中村哲医師の姿をみて、あれはほんとうに本物だねなどといいながら、とても打ちひしがれる思いをするのである。

 少し解説を加えなければ意味が十分に伝わらないところがあるけれども、大江さんの締めくくりの文章もそのまま引用しておく。

 <そこで教育基本法が、次いで憲法が、時間的にも空間的にも視野の狭い、粗野なような人々によって作り変えられようとする窮境のなかで、もうひとつの窮境を生きた若い自分の経験を、つまり戦後十年の間に自分がその創生に参加した、より明確な「文化伝統」のことを、若い人たちに伝えたいと思っています。>

 ここまで来てしまった状況下で、「伝えたいと思っています」は、悠長すぎるのではないか。しかし、大江さんとしては、そうする以外にないに違いないし、それはそれで大きな力をあらわすはずである。しかし他方で、戦後半世紀以上にわたってのいわゆる知識人たちの超越ぶりこそが、今日の日本の状況をもたらす一因ではなかったのか。われわれは知識人ではないけれども、言葉の人間としてはやはり同罪である。

 結びのことばを引用したが、書き出しのことばはこのようなものである。<この六月、私は考えを突き合わせて一緒に働きたい人たちと、憲法「九条の会」を呼びかけました。>

「一緒に働きたい人たちと」という超越的限定をあまり気にせずに、呼びかけに応えて動き、働き出す草の根の人たちがあり、そのような純朴な態度こそが今日の窮状を打開して行くために必要とされる正当な態度であるとも考えている。

 われわれも「憲法九条党をたちあげよ!」の運動をささやかながら展開している。そういった中で、われわれのホームページを見つけて、リンクを張り共同の働きをしたい、と申し出る方たちもおられる。この機会に、ホームページの記事をそのまま載せて、最近のわれわれの動向をお知らせしたいと思う。

 611日の記事思いはいろいろありますが何もかも遅々として進みません。いまや、これはもう道楽だなと自嘲しています。冬眠ならぬ夏眠(仮眠)を脱する日がいつ来るのか。来ないのか。風がいつ吹いてくるか分からないけれども、ともかく帆は張って待つことにしましょうと、窓の外の森を眺めながら考えているこのごろです。

というわけで、憲法九条党も、夏眠中です。(いろいろな人に会ったり、話したり、九条党の旗を掲げてデモに加わったりはしていますけれど。)そんな中で、今朝の新聞を見ると、<「憲法は今、戦後一番の危機」 大江氏ら9人「9条の会」結成>という小さな囲い記事が載っていました。ようやく「知識人9人」が立ち上がったわけですが、どれだけ、下からの、民衆レベルの運動にしていくことができるか、それが問題ですね。われわれは九条「党」にこだわっているわけではない。気にかかるのは、「九条」の命運です。「9条の会」の運動がどういった広がりのものになって行くのか大いに関心があります。

75日の記事9条の会」の呼びかけに呼応する草の根の運動を支持します!

「憲法九条党」の立ち上げを提唱しながら、「9条の会」支持の表明、さらには応援というのは自己矛盾のようにも見えますが、どうぞお許しください。「党」立ち上げに向けていささかの奔走努力はしてみました。党立ち上げは、制度上、なかなか難しいものがあります。そんなことは始めから分かっていたことではありますけれども。

「9条の会」がスタートしました。ここに名を連ねておられる人たちの中の少なくとも一人の方には、「九条党立ち上げ」の案内を郵便で送りましたが、何のお返事もなかった。私情としてはすこしくやしいような気もありますけれど、そんなことは小さいこと。われわれの心配は、「党」の成否ではない。憲法九条の命運です。有識者たちが「9条の会」を発足させた。これが、エリートたちの高みからの呼びかけにならないために、この呼びかけに呼応する下からの勝手連的な草の根の運動が各地で起これば、大成功ということになるのではないでしょうか。

わたしたちの<「憲法九条党」立ち上げページ>を見て、上にあげた<「9条の会」を応援し、趣旨を広める会>の西山さんという方から、リンクを張らせてくださいとメールがありました。その心意気にふれ大いに励ましを覚えました。わたしもこの会の活動に賛同します、署名します、とメールしました。

わが九条党のみなさん、こちらもこういった草の根運動の人たちとリンクをはり、共同の活動をしていきたいと思います。ご了承くださいね。
朝山正治(<「憲法九条党」を立ち上げよ>仮代表)

大江さんは教育基本法と憲法を基盤にすえ、「戦後民主主義者」を標榜して、生きてこられた。わたしは怠惰にして大江さんのような緻密な論理をもって生きてきたわけではない。この方面のわたしの知識など実に大雑把なものでしかない。ただわたしは、12歳のとき、聖書に出会った。聖書の言葉が、わたしの生きる基盤となった。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」という言葉によって方向づけられた生き方を求めてきた。「憲法九条党」の発想も、その線上にあると信じている。戦後ほぼ60年を経て、振り出しに戻り、また一から「求めよ」、と呼びかけられている。虚無的な思いに襲われることはあっても、主の呼びかけに応えて、さらに熱心に「求める」者にならなければならないと考える。(2004/07/30




2004/04/21 Wed.
下の赤文字記事に書かれていることは中止し、この欄は本来のipcc talk に戻します。
憲法九条党関連の記事は「憲法九条党立ち上げページ」ができましたので、そちらへ掲載します。


2004/08/07
天は神の栄光を物語り 詩編19:1-15

国立のぞみ教会週報(08/01)所載

 かたーらずー、いわーずにー、そのひびきーは、ぜんちにみつ。
 ひび きはー ぜーんちに みーつー。

 ハイドンのオラトリオ「創造」は、わたしが聞いた本格的な音楽の最初のものだったような気がする。といっても、「天は御神の栄光を語り、・・・」ではじまるほんのさわりの部分を聞いただけだ。戦時中の小学生が、新制中学の最初の一年生としてキリスト教の学校に入り、何年生のときかははっきりしないけれども、創部間もない合唱隊が文化祭か何かで歌うのを聞いた。「語らず言わずに、その響きは、全地に満つ。響きは、全地に満つ。」この部分は、詩も曲も、その場で覚えてしまったような気がしている。心に残る歌だった。詩編19の言葉だと知るのはずっと後のことだった。

 毎朝礼拝があり、週に一度は聖書の授業があった。一年生から二年生になろうとする三月のイースターに洗礼を受けた。もちろん聖書はいくらも読んでいない。(でも、後年、その頃使っていた文語訳の新約聖書に連続して読んだことを示す赤い色鉛筆の線がいっぱい引いてあるのを見て、ほおっと思ったことはある。)聖書の理論も信仰の理屈も殆ど何も知らなかったけれども、いやあるいはそれだからこそ、「語らず言わずに」響いてくる言葉に心が振動したのかも知れない。クリスマスの羊飼いや東方の博士たちの物語を読んだりするときふと思い出するのである。しかし、それは、曖昧な情緒・感情に流されることとは区別されなければならない。 

<話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。>(新共同訳)

声は聞こえなくても「その言葉は世界の果てに向かう」のである。「言葉」を聞く、聞き取るのである。そこに、証しがあり、宣教がある。歴史を切り開いて行く力がある。

 それには、清く澄んだピュアな心と、義の感覚と、高く遠くを見る目線がなければならない。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」ある人が近頃目が全然見えなくなりましたと訴えるので、その方のメガネを取り息をかけ布で拭いて掛け直してあげた。「いかがですか」と訊くと、「あ、はっきりみえます」と言われた。清く澄んだ心がなければ、言葉は聞こえてこない。

イエスは、空の鳥、野の花を示し、人は何を食べようか何を着ようかと思い煩う必要はないのだ、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と言っておられる。今この国の政治を見ると、義の感覚が著しく萎えていることが分かる。「国益」のためと言って大義のないブッシュの戦争に加担し、卑しい利権に与かるために「人道支援」を行うのである。このような政権を成り立たせるこの国の人々に、どうして義の感覚があると言えるだろうか。何よりもまず求めなければならないものが何であるかを真剣に捜し求めなければ、言葉は聞こえてこない。

いま求められるもう一つのことは、高く遠くを見る目線である。戦前戦後の歴史を振り返り、そこから未来に向けて遠くを見ようとする目線である。天から聞こえてくる物語を聞こうとする、高い心である。理想主義といってもいい。憲法九条を捨てる「現実主義」と、「憲法九条」を堅持し、これを実現(実質化)しようという「理想主義」と、どちらをあなたはとるか。高い心がなければ、天からの言葉は聞こえてこない。

 きょうの詩は、次の祈りで結ばれている。
<どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。>  (2004/07/25


しばらく「憲法九条党を立ち上げよ!」を ipcc talk のトップ記事に置いておきます。
ほかの新しい記事は、この項のすぐ下に順次アップします。ご覧ください。
最新は、「二つの道」 (2004/03/14) 
・「叫び声を聞かれる神」
・福音の船(新しい人からなる新しい人類共同体の形成)
・「光は暗闇の中で輝いている」(ホワイト・クリスマス考)
・「待つ心」(いまに溶け込んでいる未来)
・「野の花を見よ(フロンティアの教会−周縁の視点から)」

2004/04/21 Wed.
高遠さん、今井さん、郡山さんの元気を祈ります

「源ちゃんやったね!」
夕食のあと横になってテレビを見ていたが、思わずからだを起こし、手をたたいて笑ってしまった。

「ねぇ、ねぇ、読んだ?<人生相談−どこかの国の人質問題>」
妻はそう言って、前日の夕刊に載った「答える人」高橋源一郎の創作人生相談記事の大要を話してくれたのだ。(記事は、4月19日付け朝日夕刊「文化」欄に載っている。)
高遠菜穂子さん、今井紀明さん、郡山総一郎さんにも、この記事を読んで、気を晴らしてもらいたい。この人たちは、時代を変えた。パーソンが、国や政府より大きいことを、身をもって証明してくれたようなものだ。創作人生相談の終わりの部分を引用しましょう。

<彼ら(上の三人)は、日本人の名誉を高め(その結果、日本の安全に寄与し)ました。ブッシュに気に入られることばかり考えているコイズミのような人間だけではなく、いい人間もいることを、イラクの人たちに証明してくれたからです。つまり、バカな政府の犯した過ちを、人質の人たちが償ってくれたのです。10万人軍隊を送るより、彼らの果たした役割の方が大きかった。だったら、政府や一部のマスコミは、まず彼らに感謝状を贈るべきではないでしょうか。それが非難の嵐とは。

わたしはわたしの国の人質たちにこういいたいです――こんな恩知らずのくにのことなんかもう放っておきなさい。>


2003/11/14

急告
憲法九条党を立ち上げよ!
憲法九条党を立ち上げよ!
憲法九条を堅持し、
憲法九条を実現(実質化)するために
いま、憲法九条党を立ち上げよ!

イラク先遣隊今夜出発
陸自派遣まず30人

きょう2004年1月16日、
ついにこの国は無法者に乗っ取られた。
記録せよ。
記憶せよ。
月よ、星々よ、光るな。
太陽よ、黒くなれ。
嘆け!
声をあげて泣け!


ひらめいたぞ!
街頭に出て訴えよう!

「憲法九条党」を立ち上げよう!

のぼりを立てて訴えよう!
これこそほんとの旗揚げだ!
(2004/01/14)


「憲法九条党」通信NO.1 2004/01/13

<「憲法九条党」立ち上げ準備会>を、2004/01/12(月・祝)に、豊ヶ丘で開きました。出席者13人。このことのためだけに滋賀県の琵琶湖の町から駆けつけた人もいます。先約があって参加できない人たちも数名。激励の電話や手紙も届いています。その中の一通から、一部分を下に紹介します。

「憲法九条党」の立ち上げを志望しておられるとのことで、質問したい点は残しながら、基本線には賛同を覚えます。第一に、単なる研究会ではなく、「党」という政治結社と思われる同志を組織(結成)したいとの思いと解し、その点に賛同いたします。但し、以下の点については、おたずねして、より理解を確かにしたいとの思いを持ちます。
記(ご質問事項)
1.目標(行動目標)はどこまでお考えか。たとえば、代表を議会(国会または地方議会その他)へ送ることまで考えるのか、そうでないのか。
2.共同で行う日常活動はどのようなことを考えておられるのか。(たとえば「通信」の発行とか。)
3.「憲法九条党」は仮の名称とは思いますが、政党名としては狭い名称との印象を免れないように思いますが、この名称にどの程度こだわりをもたれるのか。

ご質問ありがとうございます。準備会では、仮代表の朝山から次のメモによる報告があり、ついで参加者全員での話し合いがありました。直接的ではありませんが、ご質問への応答も含まれていると思いますので、どうぞお読みください。また、みなさんのコメントをお寄せください。

「憲法九条党」立ち上げ準備会メモ 04/01/12
挨拶(経緯報告)[ミカ書4:3朗読
基本方針(案の案)
 すべからく簡明を旨とすべし
 何か複雑に難しくしないといけないみたいに思うのは錯覚では・・・

・ マニフェスト(結党趣意)

憲法九条党を立ち上げよ!
   憲法第九条を堅持し
   憲法第九条を実現(実質化)するために
   いま
   憲法九条党を立ち上げよ!


共用テキスト
「日本は、本当に平和憲法を捨てるのか?」
 C・ダグラス・ラミス著
(平凡社 1000円)
「二大政党」の大型店、スパー時代に、憲法九条の「専門店」を立ち上げる
方法
メール、インターネットを主要な手段とする
手順
発起人100人を集める
 氏名非公開を希望する人たちは、この100名には入れないけれども、  
 いろいろな働きを分担してもらう
「憲法九条党通信」の編集と配信
事務局の設置
氏名非公開を希望する人たちを含めて、「党員」の数を、まず100人から200人、200人から300人、400人、500人、というところへ持って行く、地味に見える作業をして行くのが当面必要ではないか。
そのための、応募用紙、あるいはメール用のテンプレートを用意する。
・できれば参議院選に候補をひとり立てる。そこまで持って行ければ、話は非常に具体性を帯びてくる。
いずれにしても、「院外活動」に力点をおく
「超党派」の「時限立党」とする
とにかく、ただ研究会を開くというのではなく、この緊急時に、声をあげる、動く、働きかける、・・・。
危機感を抱く人々と連帯して行く(連帯の輪を広げて行く)

話し合いでは、次のようなことが話題に上がった。
マニフェストの「堅持」という言葉は、たとえば「護憲」という言葉と同じようで響きが消極的ではないか。むしろ、憲法九条を地球憲法に!といったアピールがよいのではないか。そう。「憲法九条を地球憲法に!」は、運動の過程でアピールすべき重要なテーマである。しかし、この国における憲法九条の現在の状況を見るならば、「堅持」はやはり外せないのではないか、という話がなされた。
なぜ「党」なのか、という問いも出された。「党」となると、一瞬身を引いてしまう人も多い。しかし、数多くの市民運動や活動サークルの一つを加えるだけでは、今日の緊急状況に間に合わないのではないか。さまざまの運動や活動に蓄えられているエネルギーを具体的な力にしていくのには、ほかに有効な手段を見出せないのであれば、「九条」と「党」にこだわらなければならない、という話がなされた。
憲法第九条の堅持と実現(実質化)の一点をテーマにして、国政に打って出ようという人がいましたら、ぜひ名乗り出てほしい。どなたか、手を上げてください!
<「憲法九条党」通信>をインターネット(当面、ipcc-21.comを使う)やメール、あるいは郵便で配信することにする。各地に勝手連的に「憲法九条党」支部を立ち上げ、当面仮事務局(asa@ipcc-21.com)に連絡し、共同の働きを推進できるようにしていただきたい。
 インターネットやメールの配信や広報活動、その他の事務局の仕事を引き受けていただける人は、申し出てください。
「すべからく簡明を旨とする」で行きましょう。ラミスさんは、憲法九条について、<これらの言葉は、とても分かりやすいものですね。どんな子供でも、どういう意味か理解できるでしょう。>と書いています。わたしたちの運動も、いろいろとこんがらかることもあるでしょうが、できるだけ分かりやすく分かりやすく展開して行きたいですね。

準備会は、限られた時間内で、尻切れトンボのようなしかたで終わりましたが、なんとか形を作って行きたい。どうぞよろしく!
2004/01/13
仮代表 朝山正治


明けましておめでとうございます。
新しい年、みなさまの上に神の恵みと平和が
豊かにありますようお祈りします。
多摩ニュータウンに引退して一年経ちました。
窓の外の森を眺めながら、
教会の業について思い巡らしています。
ジョン・レノンは、「イマジン」で、宗教はいらない、
天国も地獄もない、と歌っています。
差別や戦争を糧とする欧米のキリスト教を指して、
こんな宗教はいらないと訴えているのだ、
とわたしは思います。
わたしたちは、切望します。まさに
ポスト・イマジン(「イマジン」後)の時代を生きる
キリスト者として教会を考えたい、と。

この国は、いま、戦後最大の危機の縁に立たされています。
憲法が、危ない。
「憲法九条党」立ち上げの道をつけたい。
ご加祷ください。
2004年正月
ipcc主幹 朝山正治

「憲法九条党」立ち上げ準備会(第1回)

日時 2004112日(月・祝) 2:00-4:00pm.
場所 ipcc 豊ヶ丘フェローシップ
   〒206-0031 東京都多摩市豊ヶ丘6-3-2 308
   朝山正治宅
   Tel. 042-373-2710  email:  asa@ipcc-21.com

上記のように第一回準備会を開きます。
どなたもご自由にご参加ください。
どうぞ日程に入れてください。
できれば事前に電話又はメールでお知らせください。

憲法九条党を立ち上げよ!
憲法九条を堅持し、
憲法九条を実現(実質化)するために
いま、憲法九条党を立ち上げよ!

われわれ自身への呼びかけです。
天からの呼びかけと言ってもいいでしょう。
呼びかけに応えて、仲間になってください。

C・ダグラス・ラミスさんが、11月に、
「日本は、本当に平和憲法を捨てるのですか?」
という小さなしかし重い内容の本を出し、
九条について、こう言っています。

<この大切な尊い宝物が失われてしまうなら、
日本にとって、
世界にとって、
こんなに悲しいことはありません。>

この、一二年、三四年が、正念場です。
憲法第九条を堅持し憲法第九条を実現する
流れ
を取り戻すために、
今日の状況に危機感をお持ちのみなさん、
熱い思いをお持ちのみなさん、
立ち上がりましょう。

上にあげた、ラミスさんの本
「日本は、本当に平和憲法を捨てるのですか?」
(平凡社 1000円)
を、共有のテキストにすることを提案します。

「憲法九条党」立党発起人100名を、まず募集します。
どなたも自由にご参加ください。宗教その他一切不問です。
入党希望者は、氏名、住所を、こちら
asa@ipcc-21.com までお知らせください。

当面、広報は、便宜的に、ipcc のホームページを用いて行います。
できるだけ早く、「憲法九条党」ホームページを開設したいと思います。

立党世話人仮代表
朝山正治
2003/12/28
(下は、ipccフォーラム「憲法九条党を立ち上げよ」 からの転載です。あなたもフォーラムに参加してください。)
■--憲法九条党を立ち上げよ!
 >>>m. asayama -[URL]  -- 2003/11/12-23:51..No.[140]
    憲法九条党を立ち上げよ!
土井さん、福島さん、大型店やスーパーの真似をしても太刀打ちできません。あれもこれもは、彼らに任せなさい。チャンスです。憲法九条の専門店で行きなさい。社民党の看板はいさぎよく降ろして、憲法九条党を立ち上げてください。ブッシュ-コイズミの犯罪を、真正面から糾弾しなさい。人々の蒙昧を正しなさい。5年間だけ、いや1年、2年だけの党でもいいではないか。憲法九条だけに集中する憲法九条党を立ち上げてください。
辻元さん
辻元清美さん!どこにいますか。あなたは、どうする。顔を出してください。旗を揚げてください。




>>> MLK   -- 2003/11/13-00:05..No.[141]
 
    できたら、迷わず入党します。
今日はイザヤ書9〜10章の学びをしたのですが、過酷な審判(国の滅亡)を預言しつつ、その向こうに、小さき「残りの者」の存在に希望をかたく持つイザヤに圧倒されました。
苦しめられ卑しめられる、柔和で謙遜な「残りの者」に次世代への希望をみたい。

 

>>> m. asayama -[URL]  -- 2003/11/13-21:47..No.[142]
 
    入党志願者、第一号。グッド・スタートですね。これで少なくとも党員二人は確保できたのですから!
自分たちが動き出さなければ何も始まらないのかも知れませんね。わたしは、おっくうなんです、こういったことは。だれか、やろーっと言う人があったら、手をあげてください。側面からのサポートは、いっぱいしますから、やるぞーっというひと、出てきて欲しいなぁ。
党首を辞められた土井さん、ご苦労さまでした。憲法九条党で行きましょう!福島さん、みんなと話し合ってくれませんか。小党でいいのです。院外活動、対話集会をいっぱいすればいいのです。手伝いますよ!辻元さん、顔を出してください!

 

2004/03/14
二つの道
申命記 30:15-20  エフェソ 2:14-22
先週説教要旨 朝山正治
国立のぞみ教会週報(2004/03/14)所載

今朝、10キロ先の豊ヶ丘から国立にやってきて牧師館の駐車場に車をとめ、ポケットに手をやって財布と免許証を忘れたことに気がついた。参ったな。帰りは慎重に運転し寄り道せずにまっすぐ帰ることにしよう。

 法というものがあって、これによって生活が守られている。[念のために広辞苑で「法」を引いてみると、<社会生活維持のための支配的な(特に国家的)規範。体系的であり、物理的な強制が可能。>とある。] しかし今、この国がほんとうの意味で法治国家といえるのだろうか。一昨日(3月5日)の朝日は、「ビラ配りでなぜ逮捕」という社説を載せている。立川市の防衛庁官舎の、飲食店や不動産のチラシが毎日いっぱい投げ込まれる郵便受けに、「自衛隊のイラク派兵反対」のビラを入れて回った三人の人たちが、一ヶ月余り後に、住居侵入の容疑で逮捕された。家宅捜索がされ、手帳やパソコンを押収された。警察は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えているが、民主主義の社会で警察のやり方はあまりにも乱暴ではないか、と社説は抗議している。権力によって法が極めて恣意的、政治的に使われている事例はほかにもいくらでもある。卒業式、入学式のこの時期は、公立の学校では、日の丸・君が代の強制によって、見える形見えない形で苦境に立たされる教師や生徒たちやその他の人たちは多い。

 そういった中で、他方では、石原都知事の人権を無視した非道きわまる暴言は放置されたままであり、稀代のペテン師小泉首相の詭弁、強弁、はぐらかしは白昼天下をまかり通り、ブッシュの大義なき戦争への加担、憲法違反の海外派兵など、ずる賢い手法で積み上げられていく既成事実はだまされやすい国民によって黙認され追認されて行く。最早この国は殆ど引き返し不可能なところにまで来てしまったのではないか。これでこの国はほんとうに法治国家と言えるのだろうか。悪い時代である。闇の中へどんどん突き進んでいく時代に、甘いことを言い、迎合的に語る人たちをわたしは信用しない。

 <見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。>

 いま、この国は、命と幸い、死と災いの前に置かれている。(きのう聞いた芸人の言い方ではないが、)間違いない!

 <わたしは今日、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主に従いなさい。>

 申命記は、ユダヤ教原理主義者たちの偏狭なナショナリズムの拠り所ともなる箇所ではあるけれども、そしてイエスの福音が彼らの硬直した律法主義を克服するみちであることを述べなければならないのであるけれども、ここでは、端的に、この悪しき時代に生きるわれわれの前に二つの道が置かれていることを、そして命の道を選ぶか死の道を選ぶかはいまや極めて差し迫った現実的な問題であることを、何よりもまずわれわれ自身に向けて語りかけ問い掛けなければならないと思うのである。


2004/02/07
叫び声を聞かれる神
出エジプト 3:1−12
先週説教要旨 朝山正治
国立のぞみ教会週報(2004/02/08)所載

 人は、自分の出生を選ぶことができない。
 人は、しかし、自分の人生・生涯を選ぶ。

 人は、自分の出生を選ぶことがっできないのである。時代を選ぶことができない。地域や家を選ぶことができない。性別を選ぶことができない。モーセは、エジプト王ファラオの圧制のもとで苦しむイスラエル人の家に男の子として生まれた。ファラオはイスラエル人たちの台頭を恐れ、生まれてくる彼らの男の子は殺すよう命じていた。しかし、幼子モーセは、神を畏れる、二人の助産婦や母と幼い姉ミリアム、あるいはファラオの王女をも含む、社会的には男性のような力をもたない女性たちの機転によって命を保つことができた。人は、自分の出生を選ぶことはできないが、神の不思議な摂理のみ手の中で育てられるのである。そこに、人間の選択をこえた、神の選びがある。旧約の預言者エレミヤは、<主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」>と述べている。パウロもまた、<わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、・・・>と述べている。人は、偶然に生まれるのではない。生きるには、意味があり、目的がある。

 人は、一回限りの自分の人生・生涯を選ぶのである。

 ヘブライ書は、モーセについてこう書いている。<信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。>(11:24-26

 葛藤の末に選んだ道である。抗しがたい神の選びと派遣によって選ばされた道である。エジプトを逃れ、いまはミディアンの地に隠遁し牧歌生活を楽しむモーセに、神は「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられたのである。「やばい」出来事である。彼は、思わぬところで神の前に引き出されたのである。彼は、足から履物を脱ぐよう命じられる。「あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」日曜日を、聖日と呼ぶ。礼拝堂を、聖所という。われわれは、きょうこの場所で、神の前に立っているのである。それが、礼拝である。神の前で、それぞれの生き方を選ぶのである。

 神は、ご自身を、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われる。「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束される神は、砕けた言い方をすれば、「わたしだ。わたしだよ」と言って呼びかけられる方である。われわれは、これに聞いて従い、人生を選ぶのである。ヘブライ書は、イエスよりはるか昔に生きたモーセについて、「キリストのゆえに受けるあざけり」と書いている。モーセにご自身を顕された神は、キリストによって啓示された神と同一の神である。それは、人々の苦しみやつぶやきを見、その叫び声を聞き、その痛みを知られる神である。(出エジプト3:7-10、マタイ9:35-38

 オレオレ詐欺が多発しているという。教会は、「わたしだ。わたしだよ」と言って呼び出される神に聞いてこれに従う。モーセに「わたしだ」と言って呼びかけられた神、イエスにおいてわたしたちを召し出される神は、いかなる神であるか。その「声を聞き分ける」信仰を養わなければならない。(ヨハネ10:16



2004/02/05
福音の船
ガラテヤ書からの小説教6(最終回)
「ぷれすびてりー」誌(カンバーランド長老キリスト教会日本中会) 
No.112 (2004/01/11発行) 所載

そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、
奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。あなたがたは皆、
キリスト・イエスにおいて一つだからです。
               ― ガラテヤ 3:28

 教会という船が、福音という荷を積んで、エルサレムからユダヤ、サマリヤを経由し、ローマ世界の諸都市に荷を降ろしながら、長い年月をかけてアフリカや南北アメリカ、アジアの国々までやって来た。わたしたちも荷を受け取り、あるいは船に乗り込みさえして、福音の恵みに与かることが許されている。

 しかし、何か重大なものが失われているのではないかと考えるときがある。二十一世紀になった今も、世界のいたるところで、憎しみがあり、争いがあり、流血がある。キリスト教国といわれる国々で、血で血を洗う戦いが繰り広げられている。

 福音の船が通って行った後に、何が残ったか。数多くの壮大な伽藍が残った。絵画や彫刻が残った。大きな制度・組織としての教会が残った。万巻の重厚な神学書が残った。そして、戦争が、飢えが、貧困が、憎しみが残った。壁が、残った。

 何か大事な荷物を、積み忘れたか、どこかに落として来てしまったかしたのだ。

 それは、イエスの弟子たちがイエスと共にガリラヤの海を小舟で渡っていたころは、そしてパウロたちが地中海を行き来していたころは、間違いなく福音の船に積み込まれていた。福音の船で運ばれ、行く先々で降ろされる荷物の中に、それは確かにあった。いつどこでどうなってしまったのか。今では、その積荷が見当たらないのである。それでも、平気でいたのが不思議だ。

 積み忘れたものを取りに戻らなければならない。ガリラヤの海へ戻ろう。地中海へ引き返そう。パトモス島へも行ってみよう。そう、聖書の再読、再々読。きっと、あの大事な福音の小包が、引き取り手が帰ってくるのを待っているはずだ。その荷を積み込まなければ、福音の船が、この時代に、世界の海を航行する意味がまったくなくなってしまう。

 福音の船が地上のすべての地域に運んでいくはずの福音の小包。新しい人たちからなる新しい人類共同体の形成!イエスは、新しい人類を創造されたのだ。

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Chair - Masaharu Asayama
E-mail : asa@ipcc-21.com