キリストの名を呼び求める コリント一 1:1-9

 そもそも、何の問題もなく非のうちどころのない、これぞ理想の教会と呼べるような教会など、古今東西どこを捜してもいまだかつてあったためしがありません。コリントの教会も、これから読み進むうちに一つ一つ見ることになりますが、人間関係の問題、福音理解の問題、道徳や生活習慣の問題、などなど問題がいっぱいです。教会史上最も偉大な、神学者であり、伝道者であり、牧会者であり、指導者であるパウロが建てた教会にしてこのさまです。教会に混乱や動揺があったとしても驚くにはあたりません。この世のあらゆる問題が、いろいろな形で教会に持ち込まれてくるのです。

 教会のシンボルは、なんと言っても十字架です。十字架を見ていると、大きく手を開いて、すべての人を招き迎えてくださるイエス・キリストのお姿が見えるような気がします。イエスの胸に鋭いやいばを突き刺す者があるかも知れない。それをもしっかりと抱え込んで迎え入れてくださる主イエス・キリストが、中心におられる。人間のあらゆる醜悪、愚鈍、頑迷固陋、反逆反抗の罪の中で、十字架の主・キリスト・イエスは立っておられる。光は暗闇の中で輝いている。それが、まさに教会ということではないでしょうか。

 コリントの信徒への手紙一のきょうの箇所、1:1−9の短い段落に、数えてみると11回も、イエス・キリストの名が記されています。どんなに問題の多いだめな人間たちの集まりであっても、イエス・キリストのゆえに、教会は教会なのです。有難いことです。

 手紙の差出人であるパウロは、まず始めに、<神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、・・・>と書いています。自分が偉いから使徒なのではありません。教会では、この世の基準は通用しないのです。この手紙の終わりのほうで(15:9-10)、パウロはこう言っています。<わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日わたしがあるのです。>

 きょうの箇所、次にパウロは、<コリントにある神の教会へ>と書いています。教会は、神の教会なのです。ユダヤ人や異邦人、金持ちや貧乏人、知識のある人ない人、地位の高い人、身分の低い者、奴隷、丈夫な人、弱い人、年寄り、若者、男性、女性、そのほかいろいろな人たちがこの教会にはやって来た。問題があるのは当たり前です。どんなに面倒な問題があっても、それは神の教会です。単なる人間の集まりではない。

 <神の教会へ>と言って、パウロは続けてこう言います。<すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。>

教会の成員とは、巣のなかで親鳥に向かって口を大きく開けてさえずる雛鳥のようなものではないでしょうか。「至るところで」とは、国立だけではない、東大和市で、南林間で、いや世界中の教会で、神に養われている人々のこと。神に愛され、養われ、用いられる者たちが、聖なる者と呼ばれている。わたしたちも聖なる者なのです!感謝!

<イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。> 

01/01/07

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