神の力 コリント一 2:1−5

 音楽評論家の吉田秀和さんが、朝日夕刊の「音楽展望」で、この間(124)は、「20世紀のピアニストたち」という見出しのエッセーを書いていました。そこに、ショパンを弾くホロヴィッツとルービンシュタインとを対比して述べた、当否はわたしは分かりませんが、興味深い箇所がありました。ルービンシュタインはまさに「世紀の巨匠」と呼ばれるにふさわしく、その演奏は華麗で楽しい。「でも、あとに何も残らない。彼のショパンは、ひかれる前と同じ姿で、かすり傷一つ負わないまま残っている。一方ホロヴィッツのは作曲家と演奏家の合作みたいなもので、何をひいても、結局、音楽を塗りかえてしまう」というのです。

 ここから、聖書との関わりについて考えてみました。

 聖書を読む。聖書から語る。説教をする。その時、聖書ははたしてどうなっているだろうか。聖書は、読まれ語られる前と同じ姿で、かすり傷一つ負わないまま残っている。おそらく、オーソドックスなたちばからすれば、そうでなければならない。聖書について、人々は、基本的に、すでに知っていること、理解していること、同意していること、流布されていること、を繰り返し同じように話し同じように聞くことを予定しているのではないか。暮れになると筋書き通りの忠臣蔵を見て楽しむように、聖書も、共有された自明の筋書きにそって読んで行く。プロテスタントはプロテスタントらしい、カトリックはカトリックらしい、ロシア正教、ルーマニア正教は、それぞれの正教らしい、一定の正当な読み方話し方がある。そこに立つ限り、おそらく、聖書はそれなりにいつまでもかすり傷一つ負わないまま残っている。

これが、しかし、聖書との正しい関わり方なのでしょうか。

イエスが、聖書(旧約)を語られたとき、彼は、結局、聖書を塗り替えてしまったのではなかったか。それは、ユダヤ人にとって大きな衝撃だった。パウロにとっても同様であった。しかし、やがてパウロ自身が、イエスによって完全に塗り替えられてしまった。

<十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。>(1:18

<・・・それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。>(2:5

 聖書の言葉は、生きた言葉です。じっとしてなどいないのです!それは、「神の力」です。力、「デゥナミス」です。ダイナマイトとかダイナモ、ダイナミックといった語の語源をなす「デゥナミス」です。静止した風がないように、静止した力はない。いや、静止していてように見えてもいつ爆発するか分からない動詞系のことばです。神の言葉は、「知恵ある者の知恵を滅ぼし」「賢い者の賢さを意味のないものにする」「知恵ある者に恥をかかせる」「世の無学な者を選ぶ」「力ある者に恥をかかせる」「世の無力な者を選ばれる」「世の無に等しい者、・・・を選ばれた」、とあるように、滅ぼし、意味のないものにし、恥をかかせ、選ぶ、力なのです。神のことばが語られるとき、わたしたちは「無傷」でおることはできない。跡形もなく変えられてしまうのです。そのようにして聞いた時、わたしたちは、初めて神の言葉を聞いたということができるのではないでしょうか。そもそも、信仰とは、人間の知恵によって得られるものではない。「神の力によって信じるようになる」のです。

2001/01/28  

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