エルサレムの非聖地化 コリント一3:10-23

  S.ハワーワスとW.H.ウィリモンの共著「旅する神の民−『キリスト教国アメリカ』への挑戦状」(”Resident Aliens” − A provocative Christian assessment of culture and ministry for people who know that something is wrong)は、キリスト教はこれでいいのかと真剣に問う人たちに向けて書かれた、刺激的で非常に示唆に富む本です。少し引用してみましょう。

 <教会は、コロニーであり、他の文化に浮かんでいるひとつの文化という孤島である。> パウロは、「わたしたちの本国は天にあります」と言っています。つまり教会は、地上にあって天とのつながりにおいて存在する群れ、「天のコロニー」だ、というのです。続きをもう少し見てみます。<わたしたちの市民権はバプテスマによって、ある領域から別のところへと移され、それぞれの文化のなかで、わたしたちは旅する神の民(レジデント・エイリアンズ)となっていくのである。> 書名でもある「レジデント・エイリアンズ」とは、「異郷に住む民」「寄留民」といった意味です。教会が、この世のいかなる組織や団体とも根本的に違うことが、これらのことばによって表現されています。こういう文章も出てきます。<国家ではなく神がこの世を支配していること。神の国の領域はシーザーの領域をも越えていること。そして、教会の最大の政治的課題は、弟子として喜んで犠牲をはらう覚悟のある民を形成すること。わたしたちは、教会がこれらをふたたび主張しはじめるように願ってやまない。>

 さて、パウロはコリント一3章で、教会を比喩的に、「神の畑」「神の建物」「神の神殿」と呼んでいます。「神の神殿」ということばから、その意味をさぐってみましょう。当時の、いや今日においても、ユダヤ人であれば、「神殿」と聞けば直ちにエルサレムの神殿を思い浮かべるでしょう。かつてのパウロにとっても、エルサレムの神殿は、何よりも大事なものでありました。しかし、キリストを知ってからは、それは彼にとって何の価値ももたなくなったのです。

ついでながら、いまわたしたちは、パレスチナの状況を憂い、「エルサレムの非聖地化」を唱えます。エルサレムあるいはそこに立つ神殿の非聖地化は、国家や民族や特定の文化や宗教の「非聖地化」につながる象徴的な意味を持つと考えます。

 エルサレムの神殿ではなくて、どこのだれとも分からぬ種々雑多の人々の寄せ集めである教会が、「天のコロニー」、「神の神殿」となるのです。教会とは、まさにそういうところです。わたしたちは、これを「中心の移動」とも言います。エルサレムの神殿から、あるいは「日の丸」や「君が代」から、中心が、世界中のいたるところに散在しキリストの名を呼び求める人々のところへと、自由自在に移動していくのです。

 そこでは、「この世の知恵」は役に立ちません。パウロは、教会の有力者たちに、この世の知恵によっては見ることも実現することもできない神の国の現実があることを、このコリント書でも繰り返し語っています。教会は、この時代に向けて、神の国のこのリアリティをしっかりと証しできる群れにならなければなりません。

      01/02/18  

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