神への忠実 コリント一4:1-21

 パウロは最後どうなったのか、はっきりしたことはわかりません。政治犯としてカイザリアからローマへ護送されて行った。ローマで、かなりの期間、軟禁状態に置かれた。そこでは訪問者たちに比較的自由に福音を語り、手紙を委託することができたようです。その後どうなったか、史料からは不明です。かねての念願がかなってイスパニア(スペイン)にまで宣教の足を伸ばすことができたという可能性は残るけれども、それよりは、ローマで殉教したと見るのが順当でしょう。シェンケービッチの小説「クオ・ヴァディス」では、暴君ネロのキリスト教徒迫害のときに殺されている。

 パウロは、深い祈りの人であり、霊的・神秘的な宗教経験の豊かな人ではあったけれども、決して深山にこもって瞑想にあけくれ、俗塵を離れて高説を垂れる高僧名僧といったたぐいの人ではありません。このコリント書を読んでも分かりますように、パウロの文章は、上品な聖人君子が書くようなおとなしいものではありません。時に挑戦的で、感情的とも言えるほどに激越です。筆記者によって書いているわけですが、筆記者もしばしばその気迫に圧倒される思いではなかったかと想像します。この書の最後のところでパウロは、筆記者からペンを取って、次のように書いています。

<わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ。来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。>

礼拝の最後に牧師がささげる祝祷で、「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」ということばが入っているのを聞いたことがありません。それだけ、今日のキリスト教は弱くなっているのかもしれません。

パウロにとって信仰(ピスティス)とは、忠実(ピストス)のことです。こう言っています。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」

パウロの、職務への忠実を如実に物語る二つの箇所を引用しましょう。使徒言行録20:24。エフェソの長老たちに語ったパウロのことばです。「(しかし)、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

テモテ二4:6-8。「わたし自身、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。・・・」

きょうの箇所でパウロは、「(そして、)高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから」と言っています。わたしたちの言葉や振る舞いが、正しい審判者の前で通用するものであるのかどうか、わたしたちの信仰が、神への真実・忠実に裏打ちされたものになっているかどうかをよくよく吟味したいと思います。

01/02/25

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