神の国を受け継ぐ者 コリント一6:1-11

 教会は、出来事です。イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。これこそ、ほかのところで経験することのない出来事です。

  伝道・宣教とは、この出来事へと人々を招き入れることです。フィリポがナタナエルに、「来て、見なさい」”Come and see.” と呼びかけたように(ヨハネ福音書1:46)、教会は、人々を教会の交わりへとお招きするのです。そこには、何の分け隔てもありません。教会の中心に、主イエス・キリストがおられます。主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、あなたを招いておられます。また、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、語りかけておられます。

 コリントの教会には、重荷を負うて苦労している人たちが大勢やってきました。深刻な過去を引きずった人たちがやってきました。いろいろな人たちが、招きにこたえてイエスの名のもとに集まる。そこに、出来事としての教会があります。

少し長いですが、きょうのテキストの9-11節を引用します。パウロは、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」と書き、そして、「あなた方の中にはそのような者もいました」と言っています。一見、排除しているように見えますが、そうではない。教会の門は、どんな人にも開かれていたことを物語っているのです。だれも、やり直すことができる。チャンスは残っているとうことです。

 「あなた方の中にはそのような者もいました」という言葉に続けてパウロは、「しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」と述べています。この章(6章)の最後の節(20節)を読むと、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とあります。自分の力や努力で人が変わるのではありません。何の値打ちもないわたしを、神さまは、イエス・キリストの十字架の死という尊い代価を払って買い取ってくださった、というのです。イエスの名のもとに集まるとは、そういう想像もつかない出来事に、一人一人が触れることです。そして、生まれ変わることです。

 こうしてみて行くと、コリントの教会には、生活に余裕のあるエリートたちが集まってきたのではないことがよくわかります。いろいろな事情はあったにせよ、ありていにいえば問題を抱えた人たちが大勢やってきたのです。「日常の生活にかかわる争い」があり、トラブルが絶えなかったのです。しかし、教会で、人々は日ごとに新しくされ、あらたに厄介事を持ち込んでくる人たちを引き受けて行く力をつけていったのだと思います。現代の教会も、そういった力を回復するよう、主に祈らなければなりませんね。

01/03/18

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