聖霊の住まい コリント一6:12-7:16

<若者たちの中にいるわたしの恋しい人は/ 森の中に立つりんごの木。/

 わたしはその木陰を慕って座り/ 甘い実を口にふくみました。/ その人はわたしを宴(うたげ)の家に伴い/ わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。/ ・・・/ あの人が腕をわたしの頭の下に伸べ/ 右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。>

 この恋愛詩の出典は、何でしょうか。

 雅歌です。旧約聖書の雅歌(pp.1049-1059)。「歌の中の歌」といわれるこの詩の任意のどの一節でもでもよい、抜き出して読んでみる。聖書にこのような個所があったかと、あらためて驚く方もあることでしょう。とかく恋愛、性愛、男女の愛について否定的であることが聖書の信仰であるかのような空気が教会にはあるけれども、雅歌は、エロスの愛を実に伸びやかに優雅に描き、人間の愛の営みが本来祝福されるべきものであることをおおらかに表現していています。

 問題は、たとえば、笑いを例にとって見ても、下卑た不快な笑いがあり品位のある爽快な笑いがあるように、男女の愛の関係には、卑しく汚らわしいものがありさわやかにして高雅なものがあるます。男女の愛は、穢れた不品行へと逸脱して行く危険にさらされているのであり、その点において、実際的な注意警戒が必要なのです。

 コリントでは、交易の盛んな港湾都市にありがちな風紀の乱れがそのまま教会の内部にも持ち込まれ、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」が目撃されるようになり、これをどうしたらよいものかと途方にくれた教会の指導者たちがパウロに指示を仰ぐ手紙を書いたのです。そこでパウロは、「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れないがよい。云々」と、教会が直面する具体的な件についての問い合わせに、できるだけ直接的、具体的に指示を書いたのです。不倫とか援助交際とかポルノとか、そのほか性の乱れをもろに表しているみだらなことばや事態が世間に日常的に飛び交っている今日の日本の状況は、コリントの状況と似ていると言えるでしょう。いや、おそらく事態はもっと深刻かもしれません。

 エフェソ書でパウロは、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。・・・わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。」と書いています。このことを見ても、パウロは、男女の愛を否定しているのではありません。大事なのは、その正しい位置付けです。ここでも、終わりからの視点(7:26、ローマ13:11-14)が重要になります。

自分の体で(自分の全存在を通して)神の栄光を現すことと雅歌の解放された愛とは、決して相容れないものではないのです。 

01/04/01

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