石が叫ぶ ルカ福音書 19:28-44

 きょうから「受難週」に入ります。そしてきょうは、「棕櫚の日曜日」と呼ばれる日曜日。イエスがエルサレムに入場されたとき人々が棕櫚の枝を振り、「ホサナ」と言って迎えたということから、そう呼ばれるようになりました。その同じ人々が、数日後には、イエスを「十字架につけよ」と絶叫します。

 きょうは「ホサナ」と歌いあすは「十字架につけよ」と叫ぶ「大勢の群集」の中に、自分もいる。大きな群集の流れの中で、自分ひとり、どうすることもできない、流れに身を委ねて行く以外にない、と、「大勢の群集」の中にある。

 一億総ざんげとか言われた戦後から半世紀が過ぎ、いまや時代は一億総開き直りの流れに入った。こんな筈ではなかったと向きを変えて進もうとしても、どうにもならない。どうでもいいや。なるようにしかならない。

 <あなたもそこにいたのか、主が十字架につけられたとき。>

 ああ、半世紀近くも教会の仕事をしてきて、自分はいったい、何をしてきたのか。ああ、ほんとうに、<深い深い罪に わたしはふるえてくる。>

 エルサレムに入場されたイエスは、歓声をあげてイエスを迎える群集を黙らせるように要求するファリサイ派の者たちに向かって、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と答えられた。きょう「ホサナ」と歓声をあげあすは「十字架につけよ」と叫ぶ群衆をイエスは知らなかったのでしょうか。そうではありません。定見なき愚かな民衆の底にある叫びを、イエスは聞き取ってくださったのです。世界中いたるところで、騒動が、紛争が、混乱が繰り広げられています。わたしたちは、空腹です。わたしたちは、貧乏です。わたしたちは、住む家がありません。家の老人たちは、薬もなく横たわっています。寒くても、寝具がありません。わたしたちは、町から、狭くて不衛生なところへ追いやられています。どこへ行っても厄介者扱いされ、追い立てをくっています。人間としての品位をもって生きることができない無数の人々が、叫びをあげています。

 「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 さきほど、讃美歌「ああ主のひとみ、まなざしよ」を歌いました。<富める若人 見つめつつ、なげくはたれぞ、主ならずや。/三たびわが主をいなみたる よわきペトロをかえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。/うたがいまどうトマスにも、み傷しめして「信ぜよ」と、招くはたれぞ、主ならずや。>

 わたしたちは、クリスチャンとは言っても、ほんとうに無力です。臆病です。何もできない。何もしない。受難週の記事を読んで、ますます後ろめたい思いがします。ほんとうに、わたしたちは罪人です。罪とは、愛の欠如のことです。愛とは、他者のために生きることです。愛の大負債者なのです、わたしたちは。

 「石が叫びだす。」この言葉の前で、わたしたちは、小さくなってしまいます。それでも、いやそれだからこそ、わたしたちはクリスチャンです。理想主義、観念論、きれい事、自虐、偽善、そのほかの汚名を甘受して行くほかありません。 

01/04/08 棕櫚の日曜日 

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