イエスは復活された マタイ 28:1-10

 「あの方は、ここにはおられない。」 このことばに、大きな衝撃を受けています。「ここ」とは、どこでしょうか。教会ではないのか。わたしのこころではないのか。「わたしは震えてくる」(讃美歌306)。

 <さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。>

 キリスト者の日曜日の朝の信仰深い敬虔な行為と重ねて読むことができます。<墓の入り口には大きな石が転がして>あった。閉ざされた墓の中に、イエスの遺体が横たえられている。

 そこには、最早、何の新しいこともない。封印された死があるだけです。人々は、ただお参りに行く。お決まりのパターン化された説教とお互いの分かりきって福音理解に基づく納得。敬虔な行為ではあるけれども、新しいことは何も起こらない。実は、閉ざされた死の世界ほど人々に平安を与えるものはない。仏教では、死んだらみな仏様になる。悪人も善人もない。仏様である。だから、こちら側の人々は、安心しておられる。イエスも、閉ざされた墓の中で、静かに眠っておられるのであろうか。どうやら教会は、イエスを死んだ者として眠らせてきたのではないか。イエスがおとなしく眠っている限り、心配はない。教会は、自分たちのやり方を続けて行くことができるのだから。

 最初に墓を訪れたマリアたちは、しかし、制度化された後の教会のように硬直してはいなかった。死んでしまったイエスのおそばへ近づいて行きたい。もう一度、イエス様のお顔を拝したい。そのなきがらに触れて、香油を塗り、葬りの礼を尽くしたい。<彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。>(マルコ16:3

 <すると、大きな地震が起こった。> そして、墓をふさいでいた石は取り除かれたのです。そして彼女たちは、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろが、あの方は、ここにはおられない。・・・」と告げる天使の声を聞いたのです。

 大地震によって大石が取り除けられ開け放たれた墓の中には、イエスの遺体を包んであったがいまは空の亜麻布だけが残されていた。「あの方は、ここにはおられない!」

 ああ、何ということだ。「あの方は、ここにはおられない!」

 まさにわたしたちの間に激震が走る。それが、イースターではないでしょうか。イースターを記念する日曜日の出来事ではないでしょうか。わたしたちは、日曜日ごとに、教会に集まる。それは、実は、「あの方は、ここにはおられない」ということを聞くためではないでしょうか。

 「あの方は、ここにはおられない。」 イースターは、そこから始まる。 マグダラのマリアは、墓の外で泣いた(ヨハネ福音書20:11-)。復活の主イエスは、彼女に近づき、「マリア」と呼ばれた。マリアは、「ラボニ(先生)」と言った。イエスは、「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

「ここにはおられない」主が、いま、ここにおられる。
イースター、おめでとうございます。 

01/04/15  イースター  

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