無報酬の働き コリント一 9:1-18

  イチローが、自ら作った連続試合安打記録を、土曜日の朝(日本時間)、更新し「17」としました。「それにしても、アメリカは広いから、飛行機であっちこっちと移動しなければならないし、大変ね。旅費は、自己負担?」と、愚妻。「そんなことあるはずないじゃないか」「ホテル代も?」「あったりまえだよォ」と言いながら、ふとパウロのことを考えました。

 パウロは、多くの場合、自費で伝道旅行をしていたんですね。アンティオキアとかフィリピとかそのほかの教会の支援が全くなかったわけではなかったにせよ、パウロはそれを当てにして旅をし福音を語っていたわけではない。時がよくても悪くても、どのような状況のもとでも、彼は、テントの修理をしたりしながら旅をし、伝道していた。

 「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。」という言葉がきょうのテキストの最初に出てきます。ここでの自由は、いわゆるキリスト者の自由、律法や食物規定やさまざまのタブーからの自由を言ったものですけれども、同時にそこには、自費で旅する、何ものにも拘束されない自由な伝道者の姿が映し出されているように思えます。確かに彼は、伝道者として、自由だった。自由の代価は、決して安くはなかった。援助を当てにしない。福音を無報酬で与える。そこに、彼の伝道者としての自由があったと思います。

 パウロは、伝道者が伝道によって食うのは当然のことであると、幾重にも例をあげて論証します。そして、最後には、「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」とまで述べていますが、「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない」と言ってのけます。

 そこに、伝道者パウロの、あえて言いますが、意地があり誇りがあります。意地とか誇りとか、あまりにも人間的なことばですが、パウロは、コリントの教会の人々に対して、そういった姿勢で語っていると思います。人間パウロの「面目躍如」と言ったところです。実際彼は、伝道者としての権利を用いてコリントの教会の援助を受けるつもりはない、「それくらいなら、死んだ方がましです・・・」とまで言っています。まさに、この書は、手紙ですね。パウロは、口述筆記によってこの手紙を書いているわけですが、唾を飛ばし息を詰まらせている様子が伝わってくるような気がします。これくらいの気概がなければ、伝道者になろうなどと考えてはならないのですね。

 わたしを含めて、最近はサラリーマンのような伝道者ばかりで、教会に飼いならされ、世間に手なずけられ、実に迫力を欠く人間ばかりのような気がしてなりません。なんとかパウロのような強い伝道者にならなければいけないと思いますが、なかなかできませんね。パウロは、不思議なことを言います。自分からそうしているのではない、強いられてしているのだ、という意味のことを書いています。強烈な召命感に生きたのです。

01/05/13

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