福音のためなら コリント一 9:19-23

 教会史の石原謙先生の講義は、初めから終わりまで、ノートに書かれていることを、抑揚をつけ、情熱的に読み上げるものであった。(天皇への「ご進講」のときも、あのようにしたのだろうと想像される。)これ以上完璧な講義は、そうざらには無いと思う。そのまま本になる内容の講義であった。旧約聖書の浅野順一先生は、初め少しばかりノートを見ながら話したが、しばらくすると、話しは横にそれるがと前置きして脱線し、脱線に脱線を重ね、時間がくると、ではこの辺でというのが常であった。ヘブル語も先生から習ったけれども、ものにならなかった。先生のほうにも、ヘブル語は、旧約を専門にするのでなければ、ABCが分かればそれでいいという気があったのではないかという気がする。石原先生の授業は、眠くて、実際、五六人の教室でいびきをかいてしまったこともある。でも、著書を読めばなんとか間に合った。浅野先生の授業では、眠ったことは一度も無い。

 パウロは、脱線の名手だと思う。脱線のように見えて、脱線ではない。いつの間にか本線に戻っている。いや、どっちが脱線でどっちが本線か分からないような文章の構成になっている。一言で言えば、中心がはっきりしているから、このような芸当ができるのだと思う。つまり、「脱線」を「本線」にあわせるのではなくて、「脱線」も「本線」も区別無く両方を中心に合わせていけば、おのずとパウロの文体が生まれてくるのである。そこに、パウロの自由がある、と言えるのではないか。

 「偶像に供えられた肉」について語り、「兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」というところへ行き着き、9章に入ると、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」と、7章22節で、「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」といった言葉に提示されている「本線」にようやく立ち返るのかと思っていると、突然またい、「わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか」という大脱線が始まる、といった具合です。

 しかし、脱線と見えたものが実はただの脱線ではなかったことが、きょうの、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人をえるためです」というところへ来て明らかになります。

 ここに、ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになった、という有名なフレーズが続きますが、それは、決して、ひとの言いなりになるということではない。この点について、しばしば勘違いがあるので注意を要する。子どもの言いなりになるのがいい親であると勘違いしている者が多いのと同じである。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言っていることに注意を払わなければなりません。人の言いなりになって彼らを救うことは絶対にできないのです。福音が、人を救うのです。この中心を外しては何も残らない。

01/05/20

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