霊的な賜物 コリント一12:1-12

 太公望は、針をつけずに釣り糸をたれていた。何をしているのかと問うと、天下を釣るのだと言った、とか。IPCCのわたしも、近年、ますます太公望の心境です。

先日、本屋に行きましたら、斜めの棚に「知事−地方から日本を変える」という題の新書版の本が積んで置かれているのが目にとまりました。地方の時代と言われて久しいけれども、現実は、日の丸・君が代問題一つを見ても分かるように、得体の知れない国というものが人々の心の領域にまで立ち入り、ああせいこうせいと荒々しく言い立てている。小泉さんの執拗な靖国公式参拝発言なども、とうにイエローカード、レッドカードものなのに今や国民的大人気を背にして、平気でまかり通っている。

ここは、「キリスト者−個人から世界を変える」と太公望を決め込むほかありません。

<あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。>

きょうは、ペンテコステ・聖霊降臨記念日。聖霊の働きの、個人性(パーソン)、共同体性(コミュニティ)、歴史性(ヒストリー)について見ておきたいと思います。

最初のペンテコステの日の出来事を伝える記事に、<(そして、)炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。>とあります。「霊的な賜物」について語るきょうのテキストでも、<“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。>とあります。ペンテコステは教会の誕生日と言われますが、大きな教会堂が一つ建ったらそれが教会と言うことではありません。一人一人の霊的覚醒が、教会を教会にする。更に言うならば、個の覚醒が新しい世界を造るのです。

覚醒された個は、個のためにあるのではない。覚醒された個によって形成される共同体のためにあるのです。個は他者のための存在として自覚され、そこに愛の共同体が形成されていくのです。<一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。><一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。>そして、この12章は、13章の愛の賛歌へとつながって行きます。

<また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。>

「イエスは主である」は、「イエス主である」と訳してもいいでしょう。ガリラヤで名もない小さな人たちの間で神の国の福音を宣べ伝え、エルサレムで、ローマの手で十字架につけられて殺されたナザレのイエスこそ、教会の頭であり、新しい時代の主なのです。「霊的」であることを強調しながら、聖書のメッセージを非歴史化、無時間化(骨抜き)してしまう宗教的熱狂主義は、その外見上の熱心さとは裏腹に、事実上、福音の非福音化、教会の非教会化をはかるものであり、福音の前進を阻む、霊的装いをした世俗的勢力です。聖霊は、歴史を生きたイエスが主であることを証しします。

 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってペテロたちを召しました。イエスの召しを受けた教会の太公望たちは、いま、世界のどこかで、小さな舟に帆を張って風が吹くのを待ちながら釣り糸をたれているのかも知れません。いつかそんな人(たち)に出会う日の来るのを待つことにしましょう。Come Holy Spirit! 

01/06/10

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