愛がなければ コリント一13:1-13

 チェルシーと曾祖母のセントジョーンさんとは、二週間わたしたちのところ(牧師館)で暮らし、先週、アメリカへ帰りました。チェルシーは、サンキューカードを添えて一冊の四角いメモ帳風のノートを置いていった。表紙に、赤い色で、「福−happiness」という文字が印刷されている。開けてみると、「幸せは、日本2001」から始まって、「幸せは、プリンセス待遇」(カラーペンで王冠いやプリンセスの冠の絵)、「幸せは、ケイ(妻のニックネーム)のてんぷら! むしゃむしゃ!」「幸せは、きれいな花いっぱい」「幸せは、きもの!」「幸せは、車椅子でのエスカレーター。ひゃー!!」「幸せは、お茶会」「幸せは、クルマでうたう歌!ららら、ららららぁ」「幸せは、心地よいベッド!グーグーグー」「幸せは、クー」(「クー」は、我が家の17歳のマルチーズ犬)などなど・・・。

八十二歳のおばあちゃんと、昨年心臓移植をし、後遺症で足の筋肉が衰え、まだまともに歩くことのできない十五歳の曾孫娘が、飛行機でよくもやって来たものです。はらはらの二週間でした。「福−happiness」のノートは、アメリカを出るときに用意したもの。漢字はあっているかとセントジョーンさんに聞かれて、「まあ、いいでしょう」と少し歯切れの悪い答え方をしてしまったけれど、「福」というのは、ちょっとぴんと来ませんね。翻訳には、こういった微妙なずれがつき物です。それはともかくとして、二人のこのたびの旅は「幸せ」を捜す旅、というよりは、「幸せ」を予定し、先取りした旅だったのだと思います。他愛ないと言えば他愛のない”Happiness Is: Being with U!” (いまどきの若い子は、YouUですませたりする。「幸せは、一緒にすごしたとき」)などなどの断片的なことばにもスナップ写真を見るような実感があり、思い切って来てよかったなぁという思いがします。

さて、きょうのテーマは、愛。「愛がなければ」。チェルシーののりで言えば、「幸せは、愛」「愛は、幸せ」ということになると思います。「幸せ」を予定し先取りした旅と言いましたが、キリスト者はまさに幸せ・愛を予定し先取りして人生という旅路を行くことができる。表紙に「愛」と書かれたノートを愛で埋めていく日々であると思いますね。

昨日、大学通りの桜の木の下で何組かに分かれて何かの作業している人たちを見ました。歩道側でスコップの土をはらい落としている老人がいましたので、みんなが何をしているのか尋ねましたら、発酵させた籾殻だとか何とかいう養分を撒いておいた土の状態を調べているということでした。ミミズがどれくらい発生しているかも見ているのだそうです。大学通りの桜は50年ほどの老木で、養生が必要なのです。春には花を愛でる大勢の人でにぎわいますが、昨日は、木を愛し、街を愛する人たちが集まり、高尾山から専門家を招いて指導を受けながら作業していたわけです。

花を愛で、自然を愛し、木を愛し、街や人々を愛する。愛にも、いろいろある。いろいろな段階がある。そんなことを考えながら歩いたわけです。

愛を知らない人はいません。人は、生まれたときから、愛の中で生きてきたのですから。しかしながら、わたしたちの愛の理解や経験は、エゴイズムに限界づけられたものでしかありません。聖書を読んで、それを越える愛があることをはじめて知ります。コリント一13章。「愛がなければ」というフレーズが繰り返される1−3節を見ると、さわやかな弁舌、豊かな教養や、自己犠牲など、素晴らしいパフォーマンスがあげられていますが、それが直ちに愛とは言えないということが言われています。4節以下を読みますと、愛は目に触れるところにではなく、むしろ人の目には見えない内面に隠されている、と言われているように思います。

聖書の愛は、わたしたちにとっては不可能の可能性というほかないにしても、イエス・キリストのゆえに、わたしたちは神の愛を信じ、愛の中で生きる者とされています。愛を予定し、先取りして生きることができるのです。

01/07/08

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