死者の復活 コリント一15:12-34

 「川のこちら側の人間はこれを一人でも殺せば重罪人として裁かれるが、川の向こう側の人間はこれを多く殺せば殺すほど英雄として賞賛される。」ある哲学者の言葉の記憶からの引用です。川は、国境という言葉に置き換えて読むことができます。国家というものを中心に据えて物を見、考えるとき、行き着く先には、上に述べられている事柄が事実として浮かび上がってきます。国家主義、軍国主義の正体は、まさにここにあると言えるでしょう。

 首相の靖国参拝問題の問題の本質は、ここにあります。新しい歴史教科書、公民教科書問題の問題の本質も、また、ここにあります。両者の問題は、別個の問題ではありません。小泉首相は、首相の靖国参拝に反対する人たちに対して、国のために死んでいった人たちに敬意と感謝を捧げるのがなぜいけないのかさっぱり分からないと言います。一国の総理が、国家を代表して、国のために死んで行った者たちに、ありがとうというのは当然であるということでしょう。それは、裏返してみるならば、国は、国民に、国のために命を捧げることを要求することができる、ということでしょう。この国のために、命を捧げてくれる国民を再生産するために、首相の靖国参拝は絶対に遂行されなければならないことなのです。

 国家主義、軍国主義における国家は、戦争を準備し、遂行し、殺人を正当化するデモニッシュな(悪魔的な)システムであると定義することできます。「A級戦犯」と言われる人々の「合祀」は、むしろ当然とされなければなりません。不本意ながら、国家によって戦わされ、死んで行った者たちも、英霊として、神として祭られる。国は、国民に国家のために命を捧げさせ、その見返りとして死んで行った者を神にしてしまうことができる。国家は、そのような権威を、何によって、どこから、付与されたのでしょうか。

 天皇を中心とした国家主義、軍国主義の国家のために死んで行った者を、国家は、これを神として祭る。これを保証する装置として、靖国神社があったし、今もある、ということです。これをありがたいと思う人も大勢いる。憲法によって否定されながらも、靖国の国家主義・軍国主義は現実に大きな力として厳然と存在している。これは、また、実に驚くべき現象です。

 首相の靖国神社参拝は、この政権がこの国の国家主義化、軍国主義化を志向するものであることを内外に表明するものです。小泉首相は、責任ある行動をとるべきです。

 それにしても、この国において、八月という月は、多くの戦没者を追悼すべき特有の月であることは間違いありません。そこに、「慰霊」という気持ちが働くのも当然の情と言えます。しかし、慰霊とか鎮魂とかは、生の世界から死の世界への働きかけであり、いわば生ける者が死者を操作するこころみである、ということができます。聖書の復活のメッセージは、これと正反対のことを告知しています。死者が復活し、わたしたちに出会い、わたしたちを励まし、わたしたちに真の命の希望を示し、生きる力を与えるのです。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリント一15:20) 死者を英霊として祀り神としてしまうといった個人にできない芸当を国家の名においてしてしまうというのは、全くのペテンでありまやかしです。国家が一個一個の命に対して口出しするとは由々しいことです。神だけが、一人一人の存在の根底にかかわり、働きかけることができます。神は、イエスを死者の中から復活させ、わたしたちに永遠の命を垣間見る信仰の力を与えられたのです。

01/08/12

HOME  説教要旨目次