復活の体 コリント一15:35-58

 わたしは時たま何か楽しい思いで心が無重力状態になることがあります。これは、名状し難い感覚で、うまく書いたり話したりすることができない。「変貌の山」でのペテロたちの感じかもしれない。まあ、わたしのような者がこんなことを言ってもさまにならないけれども、実際、中空を舞うような軽々とした楽しい感覚です。いま、きょうの聖書の個所を読んでいて、そういう幸せな思いを味わっています。復活の信仰って、ありがたい、うれしい、そういった思いです。

「復活」というテーマは、考えようによっては実にやっかいなテーマです。実際、わたしもこのテーマで、どんなに苦労したか知れません。しかしパウロは、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体でくるのか、と聞く者がいるかも知れません。愚かな人だ。」と書いています。復活のことで悩んでいる者に向かって、「ばか者」と一喝していると言っていいと思います。(実際、英訳では”You foolish man!”となっていたりする。)「愚かな人だ」「ばか者」とはまた小気味がいいというか、バカな考え休むに似たりということでしょうか、パウロは、一喝の後、実に分かりやすいたとえで死者の復活について語っています。わたしと同じように、何度も読んでご覧になったらいかがでしょうか。何年もかけて何度も読んでみたら如何でしょうか、とどなたか信仰の先輩が言ってくだされば、それに従って、すぐに得心が行かなくても、年月をかけてお読みになるのもいいと思いますね。

ま、きょうはこれでおしまいにしてもいいと思いますが、やはりいくらかのことを言わないと、はぐらかされたような気になられるといけませんので、三つほどのことを申し上げようと思います。

まず、復活は蘇生とは違うということです。蘇生というのは、死んだようにみえて実は古いものがそのまま残っていて息を吹き返すことです。最近の日本の状況を見ると分かります。敗戦の時、過去の国家主義、軍国主義をきれいに葬り去ったと思っていたのは錯覚で、いまや死んだ振りの戦前が息を吹き返し、力を盛り返しつつある。これは大変なことです。

で、二つ目は、聖書の復活は、死を間にはさんでの出来事であるということです。「死者」の復活なのです。パウロは、「あなたが蒔くものは、死ななければいのちを得ないではありませんか。」と言っていろいろなたとえを話しています。麦の種が地に落ちて死ぬ。そこから全く新しい命が生まれる。地上を生きる人間が、その種と同じように、蒔かれる時は朽ちるものだが、朽ちないものに復活する。卑しいものでも、輝かしいものに復活する。弱いものでも、力強いものに復活する。自然の命の体が死んで、霊の体で復活する。どんなにひどい障害やハンディキャップを負った人も、天の輝きをもって復活する。クリスチャンとは、この復活の命を先取りして生きる者のことです。ローマ書64節以下。

三番目に、復活は、観念ではない。実践知とでも言いましょうか。いくら頭で考えても、理屈で分かるものではありません。キリストと共に生きる中で与えられる実践知です。最後のところ、15:57-58を読んでみましょう。そして、ヨハネ福音書12:23-26を。それから、エフェソ1:15-23も。 

01/08/19

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