福音の前進 マタイ福音書9:35-38

  きょうの礼拝は教会堂がこの場所に建てられて37周年の記念の礼拝です。愛児園の一室をお借りしての宣教開始のときから数えれば優に40年の年月が費やされたことになります。40年前、わたしも26歳の神学生の時、菅原兄、唐沢兄の年に、この地に遣わされて来ました。昨年2000年末には、日本中会の定める定年に達し、2年の定年延長をしていただき、最後のご奉仕をさせていただいています。まことに無力にして不行き届きの牧師でありましたが、神さまの憐れみとみなさまの忍耐と温かい助けをいただいて、何とかここまでやって来られましたことを感謝しています。「福音の前進」に向けての小さな踏み石を一つ置いていくことができましたら、これに勝る喜びはありません。

 さて、教会とは何か、教会の宣教とは何か。この問いに答えるものとして、きょうの聖書の箇所を挙げることができます。まず最初のところに、教会の宣教の三本の柱が明示されています。<イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。> 「教え」(ディダスコー)、「宣べ伝え」(ケルッソー)、「いやされた」(セラピゥオ−)。これが、三本の柱です。

 マタイが、「教え」を最初にもってきたのには、わけがあります。マタイが対象とする読み手は、ユダヤ人です。彼らは、既に神の民として生活している人たちです。彼らは、会堂で聖書を読み、男たちは割礼を受け、神に選ばれた特別な民として、どっぷり律法漬けの中で暮らしている人たちです。彼らにとって、神の問題、神の民としての民族の問題は、いわば自明のことがらでした。分からなければ、律法の専門家(律法学者)に聞けばよかった。律法学者は、膨大な蓄積の中から答えを見つければよかった。

 彼らが自明のこととしていた事柄に揺さぶりをかけたのが、イエスであった。彼は、「会堂で教え」た。<人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。>(マルコ1:22) イエスの到来と共に、自明のものがもはや自明のものでなくなってしまったのです。山上の説教においてイエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っておられる。しかし彼は、律法学者たちの分かり切った律法理解に抗して、あなたがたはこのように命じられているが、「しかし、わたしは言っておく。」と、律法についての全く新しい読み方を提示されたのです。

 つまり、イエスは、ユダヤ人たちに、聖書の再読と、彼らの信仰理解とそれに基づく生き方についての再考を促されたのです。現代のわたしたちにとっても、まさにこの再読再考こそ、最も重要にして火急的課題なのです。

 教会は、教会とは何か、教会の宣教とは何かについて既に出来合いの答えをもっているものとして振舞っている。分からないときには、名の知れた神学者たちの精緻を尽くした神学書に聞けばよい。神学の上に神学を重ね、教会はイエスの時代のイスラエルのように、閉鎖的で独善的な領域を築き上げて来たのではないか。

 イエスは、<群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。> 「飼い主のいない羊」とは、教会とは何か、宣教とは何かについての既成の理解以上のものを持ち合わせない牧師や神学者たちに導かれる教会のことではないか。教会形成と称して、世の中(群集)の事はそっちのけにして、自分の周囲を守ることだけにしか関心の行かない牧師たちを認めることがわたしにはますますできなくなってきている。一時的な教会の繁栄・繁盛はあっても、そこに福音の前進があるとは、到底考えられないのです。この世(群集)の痛みを深いところで受け止める人たちの出現をこの時代は待っている。再読再考こそ、教会の火急の課題です。

献堂37周年記念礼拝  01/08/26 

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