一致の勧め コリント一 1:10-17

 ふと、幼いころの母の姿を思い出しました。米を洗ったり、火をおこしたり、水を汲んだり、草摘みに行ったり、朝から晩まで一日中何やかやと忙しくしていた。そんな中で、きょう特に思い出すのは、繕い物をする母の姿です。針の穴に糸を通す姿。針を頭に持って行く姿(髪の毛の油で針の通りをよくするためではなかったかと思う)。糸切り歯で糸を切る姿。そんな姿が目に浮かびます。いたんだ服につぎをあてたり、足袋や靴下の修理をしたり、古い毛糸のセーターをほどいたり、いろいろの色の毛糸をつなぎ合わせて編み返したり、よれよれの着物をばらして、糊付けし、板に貼ってかわかし、縫い直したりとか・・・。

 こんなつまらぬことに時間を費やす人はいまはもういないのではないかと思いながらも、ふと母の姿を思い出したのは、パウロのしていることが何かこれに似ているような気がしたからです。

パウロはいっぱい手紙を書いています。その多くは、ほころびや傷みが見えてきた教会の修復のために書かれたものです。現に、このコリントの信徒への手紙もその一つです。

<さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから聞かされました。>

パウロの目は、いつも前方を向けられています。後ろを振り返る余裕などなかったと思います。しかし彼は、筆舌に尽くし難い伝道の苦労を述べた中で、<このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心をもやさないでいられるでしょうか。>と書いたりしています(コリント二11:28-29)。

コリントの教会がどれくらいの規模の教会だったか確かなことは分かりません。おそらく、数十名の群れだったのではないかと想像します。大会堂があったわけではありません。多少構えの大きな家を集会の場所としていた家の教会です。それでも、三人寄れば三様、十人寄れば十様の考えや意見が出てくるのは避けられません。しかし、それをそのままにしておいたのでは教会は教会でないものになってしまいます。「キリストの十字架がむなしいものになって」しまうのです。

パウロが、小さい個々の教会の修復のために心血を注いで十字架の福音を語ったことに、あらためて心を留めたいと思います。教会に和解の一致と平和がなければ、この時代に向けて平和を証することはできませんね。

01/01/14

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