人をとる漁師 マタイ福音書4:12-25
 宣教(伝道)とは、前回書きましたように、「困っている人たちを助けること」に尽きます。この単純な理解は、わたしにとっていわばコロンブスの卵です。
 
 宣教(伝道)とは、倫理道徳を教えることではありません。正しい教理の理解の普及に努めることではありません。教勢の伸展を計ることでもありません。神の国の建設に励むことでさえありません。イエスは、<人の子(ご自身のこと)は、失われたものを捜して救うために来たのである。>と言われました(ルカ 19:10)。

 バプテスマのヨハネが獄中から人を送って、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねた時、イエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と答えておられます(マタイ 11:2-6)。

 素朴に、困っている人を助ける。そこに、神の国がある。ですから、イエスは、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われたのです(ルカ 11:20)。

 さて、きょうの三つの段落。「ガリラヤで伝道を始める」「四人の漁師を弟子にする」「おびただしい病人をいやす」と表題が付されています。イエスは、バプテスマのヨハネが捕らえられたのを契機として、「異邦人のガリラヤと呼ばれる辺境の地に退き、伝道を開始しました。イエスの神の国の福音の宣教は、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」というイザヤの預言の実現を意味しました。

 イエスはガリラヤ中を回り、「教え」、「宣べ伝え」、「いやさ」れました。困っている人々を助けて回られたのです。イエスに助けられた人たちの中にペテロをはじめとする最初の四人の弟子たちがいました。彼らはガリラヤ湖で漁師をしていました。

 イエスは彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。その日以来、彼らはイエスの弟子となりました。

 ルカの平行記事(5章)によると、彼らはイエスのなさった大漁の奇跡に驚きます。しかし、彼らはすぐに、おびただしい数の魚よりももっと重要なことがあることに気づかされます。毎日魚を捕って暮らしているペテロたちにしてみれ ば、思ってもみないところで大漁の幸運にめぐりあった。大々満足です。しかし、彼らはその時はっと目が開かれたのです。何を食べようか、何を着ようかと、そういったことばかり心配して生活していた彼らが、この日、衣食住だけがすべてではないことに気づかされたのです。「人はパンだけで生きるものではない」ということを知ったのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるのだ、という驚くべき現実に目が開かれたのです。

 わたしたちの町をJRの中央線が走っています。中央線は、いまや「人身事故」多発の名物ラインになりました。毎日毎日、満員電車の揺られて通勤する人たちの中に、ふらっと電車に身を投ずる人がいる。みんな疲れているんですね。何をくよくよしているのですか。給料を取ることがすべてではない。あなたは、人間をとるひとになるのだ、という声が聞こえてくるといいですね。
99/09/19  

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