下に登る マタイ福音書17:1-20

 先週の日曜日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を守り、愛餐祝会のおいしい食事をいただいてから、こどもも大人も全員で隣の公園に出て、聖句カードとコスモスの種をつけた風船を50個、空に放ちました。小降りの梅雨空を上昇する色とりどりの風船を見上げるみんなの姿をパソコンのモニターに映し出されたデジタルカメラの写真で見ましたら、こどもも大人も、若い者も年寄りも、みなすがすがしい何ともいえないいい顔をしています。

 天を見上げる顔はきれいなんですね。大勢いるのに、だれもあたりを気にせず無心に天を仰ぎ遠くを見ている。その顔は、天使のようです。

 <六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。>

 この文章で始まるいわゆる変貌の山の出来事は、後に出てくる、<一同が山を下るとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。>という文章によっても分かるように、栄光を受けられた(十字架につけられて死に、三日目によみがえられた)復活の主の姿を予告する出来事であった、と言えます。イエスに連れられて高い山に登ったペテロをはじめとする三人の弟子たちは、この時、彼らが先生として仰ぎその後に従って歩んできた主イエス・キリストは、ただの地上的偉大な人物ではなく、天からの神の子である(<すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。>)ことを、深いところで経験したのです。栄光に輝くイエスの御姿を拝んだ彼らの顔は、神の山を下ってきたときのモーセの顔のように、いやそれよりももっと明るく、輝いていたことだろうと思います(コリント二3:4-11)。

 彼らは、イエスとモーセとエリヤのためにほこらを建てて高い山に留まり続けたい感情にかられましたが、それはできません。山を下るのです。さまざまの深刻な問題を抱えた群衆のもとへ帰っていくのです。

 地上の生活に戻り「現実」の問題に直面したとき、変貌の山での感動的な経験はたちまち消えてなくなり、彼らは無力な現実主義者に立ち返ってしまったというのが、きょう読んだ後半の物語(14-20節)です。そこに、キリスト者が陥りやすい信仰の建前と現実への対応の使い分けの二元論の陥穽(落とし穴)があります。

 19節以下を読んでみましょう。<弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた、「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」>

 「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われたイエスのことばを思い起こしましょう。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンをもっていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。・・・」(16:5-)


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