後にいる者が先に マタイ福音書20:1-16
 イエスの十字架は人類の罪を購うためのもの(贖罪)でありましたが、社会的事象としてみるならば、人々がイエスを十字架につけてその教えと運動とを永遠に葬り去ろうとした最大の理由は、イエスの体制批判にありました。このことは、エルサレムにおけるイエス逮捕のきっかけが彼の神殿批判にあったことからも分かります。
 イエスは、ユダヤ教の宗教体制のもとで隅に追いやられていた小さい人々に目を止められました。それは結果として体制の中で特権的地位を築いていた者たちへの強烈な批判ともなったわけです。
 先週読みました「金持ちの青年」の記事も、上の視点から見るならば、時代に対してまた自己に対してさめた批判の目を向けることもなく、体制の中に無自覚にどっぷり身をおいて、その枠組みの中で立派な人間になろうとしている上昇指向の青年の無邪気な善意のなかに滑稽さが見えてきます。
 「天の国は次のようにたとえられる」ということばで始まるきょうの「ぶどう園の労働者のたとえ」も、一見関連がないように見える「金持ちの青年」の記事とも深い繋がりがあることに気づかされます。
 朝早くから長時間働いた労働者たちと陽も傾きかけた終わりの時にやっと仕事にありついてたった一時間だけ働いた労働者たちとが、賃金の支払いにおいて主人から同じ扱いを受け、それぞれ一日の生活費である1デナリオンを得た。同じ扱いを受けたと言いましたが、実は、最後に来て一時間だけしか働かなかった者たちが真っ先に賃金の支払いを受けているという点も、この物語では見逃すことのできない重要なポイントです。たとえ話は、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉で結ばれています。
 徴税人とか、遊女とか、異邦人とか、そのほか病人や貧しい人々、どこのうまの骨か判らないようない人たち、つまり当時のユダヤ人社会で蔑視され隅に追いやられていた小さい弱い人たちが真っ先に顧みられなければならない。これが、イエスが宣べ伝えた神の国の福音だったわけです。事実、初期キリスト教の時代に、真っ先に福音を信じてイエスの弟子となり宣教の担い手となったのは、多くはこういったこの世の小さい人たちだったのです。大きい人たちは、イエスを疎ましく思い、排斥したのです。
さて少し飛躍するようですが、八月、戦争と平和を考えるなかであらためて痛感させられるのは、この国の政府が、旧植民地の人たちへの精神的経済的な面での実質的な補償を誠実に行わなかったということです。いわゆる従軍慰安婦の問題など、何を置いても真っ先に解決すべきことであったのに、戦後半世紀を経ていまだにまともな対応をしていない。そこにこの国の不道徳があり不幸があります。この国の今日の道徳の荒廃の大きな要因がここにあるといっても間違いではないと思います。

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