日本中会50周年記念大会 開会礼拝説教 朝山正治牧師
2000/08/21Sun.2:00pm. エバーグリーン富士
起きよ、光を放て
イザヤ書60:1-3 マタイ福音書9:35-38
 起きよ、光を放て。
 あなたを照らす光は昇り
 主の栄光はあなたの上に輝く。
 見よ、闇は地を覆い
 暗黒が国々を包んでいる。
 しかし、あなたの上には主が輝き出で
 主の栄光があなたの上に現れる。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 


1.はじめに
 日本中会50周年おめでとうございます。
 今から55年前、1945年8月に、戦争が日本の敗戦という形で終わりました。翌年1946年の夏、厚木基地のチャプレーン・ストレート牧師との出会いを発端として後の鈴木長老、田中長老(高座教会)、根岸長老(東小金井教会)その他数名の人たちによって集会が始められ、1947年に吉崎牧師を招いて日本基督教団高座コミュニティ・チャーチが設立されました。その後間もなく、カンバーランド長老教会のメンバーであるチャプレン・クレメンス牧師との出会いを経て、カンバーランド長老教会への加盟の機運が高まり、1950年11月、正式に、カンバーランド・プレスビテリアン教団高座基督教会として発足することとなったわけです。
 そこから数えて、今年がちょうど50周年の年になります。後からみれば、最初からデザインがあったかのように、新しい世紀と新しい千年紀を迎えるジュビリー2000年の節目の年に、50周年の記念大会を開くことができますことは、何か特別な意味があるように思います。わたしたち今この集会に出席することを許されている者、事情があって出席はできなかったけれどもこの群れの一員として共に歩んでおられる主にある多くの兄弟姉妹、お互いがこのような特別なとき(時期)に共に居合わせている幸いを心から感謝したいと思います。この教会が、そしてその一員であるわたしたち一人一人が、神さまの特別なご計画の中に置かれていることを、神さまの特別な召命に与っていることを、深く受け止めてこれからの教会の歩みを進めて行きたいと思います。
 50年の歩みを大きな恵みをもって導いてくださった神に感謝します。神の召しに答えて、それぞれの賜物をもって主に仕え教会のために働かれた多くの方たちを覚え、主に感謝します。熱い祈りと大きな援助をもって支えてくださったアメリカの人々、故人となられた初代の宣教師トマス・フォレスター先生はじめ、三人の宣教師の働きを覚え、主に感謝します。
 戦後の教会の歴史は、日本の戦後の歴史と当然のことですが、重なります。多くの幸運のもとに成長を遂げることができたと思います。しかしまた、神の大きな愛のめぐみに充分に正しく応答し切れなかったところもあったと思います。今日の日本の社会の状況と教会の実情を見ますと、いったいわれわれは何をしてきたのかと思わせられるところもあります。日本中会の歩みの中にも、失敗は多くあったと思います。人間の弱さ、愚かさ、醜さも、教会の歴史の一部分であります。「わたしたちの愚かさを、わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちを新しくしてください。」とお祈りしましょう。

 今この時代は深い闇に包まれています。この事について多くを語る必要はないでしょう。社会を覆っている闇があります。人々の心に潜む深い闇があります。日本の若者たちは、来るべき世紀に明るい未来を描くことができないでいます。
 <みよ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。>
 これは、まさにわたしたちの今日の状況です。


2.宣教の三本の柱
 「暗黒が国々を包んでいる。」 「しかし、」
 そう、「しかし」です。「しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。」のです。
 ですから、教会は今、起きて、光を放たなければなりません。あの最初のクリスマスの晩に起こったことを、わたしたちは自分たちのこととして経験するものでありたい。<すると主の御使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。・・・」
>(口語訳聖書)
 教会は、まさにこの闇の時代に、起きて、光を放つべき、重大な使命を委ねられた群れにほかなりません。大きな喜びを伝える重大な務めが、わたしたちに委ねられているのです。一言で言えば、わたしたちはいま、宣教の使命をはっきり受け止め直し、その使命に生きる群れとなることが、強く求められている。神の恵みのチャレンジに、わたしたちは明確な信仰の理解をもって応答しなければなりません。
 おきよ、光を放て。
 起きて光を放つとは、鮮明な信仰の理解をもって、宣教の任務を遂行することに他なりません。
 教会の宣教とは何か。キリスト者の使命は何か。
 マタイ9:35を読んでみましょう。
 <イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。>
 ここに、宣教の家である教会を建てる三本の柱が明示されています。「会堂で教え」「御国の福音を宣べ伝え」「ありとあらゆる病気やわずらいをいやされた」。教える−ディダスコー。宣べ伝える−ケルッソ−。癒す−セラピューオー。この三本の柱によって、宣教の家である教会は建て上げられるのです。
 この三本の柱について、お話しましょう。


(1)教える ディダスコー
 イエスさまの時代、人々は、会堂においてまた家庭において、聖書をしっかり学びました。聖書を、よく教えたのです。
 日本は教育熱心な国であるといわれます。就学率、識字率は、世界の中でももっとも高いところにあるのではないでしょうか。しかし、日本の教育がほんとうの教育と言えるでしょうか。コンピューターの技術の習得は、教育ではありません。同様に、受験や就職のための英語や数学の学習は、教育ではありません。子供たちは、学校より塾や予備校のほうが面白いと言います。親たちは、多額の月謝を払って、塾や予備校に通わせます。それが、この国の実情です。実用の学が第一とされ、心の教育、魂の教育がないがしろにされているのです。
 いまや、心の荒廃は、目を覆うばかりです。闇は地を覆っています。
 国や都の首長たちが、教育の改革を声高に言い始めました。危険な兆候です。わたしが小学校に通っていたころ、小学校は、国民学校と呼ばれていました。義務教育である小学校は、皇国の忠良なる国民を養成する機関として位置付けられていたわけです。国民という言葉は、注意して用いなければなりません。人間の上に国が来るのです。国がまずあって、これに奉仕し、これに追随する民として、人間があるのです。いま国や都は、国民の教育への回帰を図っているのです。
教会は、これに対峙し、人間の教育を示さなければなりません。
 イエスさまがディダスコーされた教育とは、人間の道を教えることです。生きるとは何かを教えることです。命とは何かを教えることです。殺してはならにということを教えることです。盗んではならない、隣人のものを欲してはならない、むさぼってはならないことを教えることです。父と母とを敬うことを教えることです。第一のものを第一とすることを教えることです。恐れるべきものを恐れ、恐れなくてもよいものを恐れないことを教えることです。愛することを教えることです。小さなものや弱い者をいちばん大事にすることを教えることです。
 わたしたちは、教会において、家庭において、イエスさまが教えられたことをしっかり教えなければなりません。教育は、教会から始まるのです。
 テレビで、「家族の歳月」(8/7BS7)という番組を見ました。中国人になった日本人女性葉綺、もと野崎綾子さんの物語です。彼女の一家は、農業の技術指導の仕事に携わる父と共に満州へ渡ります。戦争が終わったとき、16歳の彼女は、単身、中国にとどまることを決意します。中国の土になると言っていた父の意思を継ぐのだと言う彼女の決心を父は覆さすことができませんでした。父と母は、この親にしてこの子ありということを思わせる立派な両親です。二人の姿の中に、教育のよい例を見ることができます。
 彼女の弟瑞夫さんが小学校二年生のときです。日本の軍隊の勢いがまだ盛んだったころです。日本の兵隊たちが中国の町を意気揚揚と行進し、指揮官が馬上でサーベラを光らせ堂々と目の前を通り過ぎて行く。自分もいまに大きくなったら、あのように偉くなり大将になりたいと思った。ある日、東条英機の写真集をもらった。家に持って帰り得意げに家族に見せたところ、普段は声を荒げたりすることのない父親が、血相を変えてこれを取り上げ、これは一番悪い人間だと言ってその写真集を真っ二つに破いて火にくべてしまった。そして、このことは口外してはならない、お前の命とわたしの命がかかっているのだ、と言った。瑞夫は、何か非常に重大なことなんだと思った。
 これが、教育です。魂の教育です。
 わたしたちの間でも、全存在をかけた、腹のそこからでる魂の教育がなされなければなりません。
 綾子さんが幼いときのことす。母に連れられて、父が吉林省の僻地に牧場をつくる準備を始めた地を訪問することになった。鉄道で行った。間違えて、一つ手前で降りてしまった。そこから、母と二人で線路沿いに歩き出した。行っても行っても先が見えてこない。疲れてもう歩けないと訴える綾子さんに、お母さんは、「歩き続けるのよ」と言い、歌を歌ってあげましょうと言って一つの歌を歌ってくれた。いまは葉綺さんの綾子さんが
それはこの歌ですと言って歌ったのは、讃美歌「主よ、み手もて 引かせたまえ」であった。<主よ御手もてひかせたまえ/ただわが主の道を歩まん/いかに暗くけわしくとも/みむねならばわれいとわじ>
 お母さんは、クリスチャンでした。
 16歳で家族と別れ中国に留まった綾子さんは、その後、西洋医学の道に進み、僻村の医療に尽くし、後には北京の医学校で教えることにもなった。医師としてまた教育者として彼女は、「人間は、薬だけ飲んで、機械だけで治すのではない。言葉をかけ、心を用いて、どれだけ多くの病んでいる人々を助けてあげるか、そこに医者の値打ちがあります」と語っています。 
 ここに、教育があります。人間の教育、魂の教育があります。
教会の教育、クリスチャンホームの教育、イエスさまが教えてくださった教育は、このようなものであると思います。わたしたちの間でも、教会において家庭において、全存在をかけた、腹の底からの、魂の教育がなされなければなりません。


(2)宣べ伝える−ケルッソ−
宣教の三本の柱のもう一本の柱は、「神の国の福音を宣べ伝える」、ケルッソ−です。
 <ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。> (マルコ福音書1:14-15)
 これは、イエスの宣教の第一声です。
 みなさんは、どこかで魚拓と言うものを見たことがあると思います。こんなに大きいのを釣った、これが証拠です、というわけです。神の国を魚拓にして示すことができたらどんなに楽かと思うことがあります。しかし、もちろん神の国を魚拓にすることなどできません。神の国をわたしたちの手にとって、分かりきったものにして、魚拓にして見せることなどできないのです。ですから、神の国は近づいた、というのです。信仰には、マスターするとか卒業すると言うことはないのです。まさに来たらんとする神の国を体を伸ばして待つ姿の中に、証があり、宣教があります。
もちろん、ただ当てもなく待つのではありません。時は満ちたと言う言葉は、すでに到来した。ということを意味しているでしょう。魚拓にする必要はない。きょうは新しいがあしたには古くなってしまうものとして神の国はあるのではありません。神の国は近づいたとは、決して古びて陳腐なものになってしまうことのない本物が、ここにある、という意味です。教会は、生きた神の国のリアリティを証しするのです。それが、ケルッソ−、宣べ伝えると言うことの意味です。
 パウロの言葉で言うならば、
 <わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。>フィリピ3:12
 捕らえて魚拓をつくると言うのとは全く違う形です。わたしたちが、キリスト・イエスに捕らえられている。わたしたちの神の国の福音の宣教は、ここから出発します。神の国の福音の主導権は、全く神の側にある。
神の国は、イエス・キリストです。イエス・キリストこそ、ご自身の生と死と復活をもって神の国を現実として、歴史的リアリティとして、わたしたちのただ中にもたらされたお方です。イエスは、主である。イエスは、王である。王の王である。イエス・キリストは、救い主である。このことをわたしたちは宣べ伝えます。神の国の福音の宣教において、人々は、人生の決定的な選択と決断を迫られます。イエス・キリストを主と告白し、イエス・キリストの従って生きて行くか、それとも、別の道を行くか。ここに、生と死を分ける選択があり、決断があります。
  パウロは言いました。「キリストに結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」コリント二5:17
 キリストを信じて歩みだすとき、全く新しい人生が始まるのです。自分の人生が変わるとき、外の世界も違ったものとなるのです。

 さきほど、宣教の三本の柱の一本は、教える−ディダスコーであると申しました。何を教えるか。何を根拠に、何を目当てに教えるのでしょうか。このディダスコーの柱は、イエスは主なりという、神の国の福音を宣べ伝える宣教の柱がなければ、それだけでは成り立ちません。教会は、神の国の倫理を、神の国の愛を、神の国の希望を教えるのです。すなわち、イエス・キリストが、主であり、王であり、救い主であることを鮮明に宣べ伝える(ケルッソ−する)宣教の上に、教会の教え・ディダスコーは成立するのです。
 イエスは主なりとは、人々が十字架につけて殺してしまったナザレのイエスは、神の力によって復活され、生ける主として、わたしたちの教会のかしらとして、立っておられることを信じ、これを明らかに証言することです。
 イエスの十字架の贖罪の故に、わたしたちは、神との和解−平和、人と人、社会の和解−平和、全被造物との和解−平和を得ています。ここに、真の希望があります。わたしたちは和解の使者として大使として、この世につかわされている。
 この大会の開催のために実にたくさんのエネルギーが費やされています。イエスを主と告白し、イエスの主権のもとに自分を置く人々からなる教会において、多くの人たちによって費やされた膨大なエネルギーは少しも無駄になることがなく、祝され、豊かに用いられ、教会の宣教の働きの大きな推進力になることを信じ、感謝します。
 あたしたちは、この共通の使命のために召されていることを、明確に自覚し、すべてを神の栄光のために考え、語り、行うときに、教会はキリストの体なる教会としてこの世に証しすることができます。

 <(ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて復員を信じなさい」と言われた。> マルコ1:14-15
 <(すると、ペトロは彼らに言った。)「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。・・・」> 使徒言行録2:38
  <「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」> 使徒言行録16:31
 <神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。> ヨハネ3:16


(3)癒す セラピューオー
 教会の働きの中に、言葉による宣教だけでなく、癒しの務めがあるということを、わたしたちは深く明確に認識しなければならない。これは、大きなチャレンジです。プロテスタント教会の宣教は、日本では、明治の初期に開始されました。日本は、もっと貧しく、社会制度や学校制度も整っていなかった時代です。当時、日本に宣教を開始した教会は、大いにマザーテレサしていたのです。その後、社会制度が整ってきました。学校制度が整ってきました。ほんとうに整ったかどうかは分かりませんが、日本が次第に経済的な力を得てくると、殊に戦後、教会の社会的な働きの多くは、公的なものの中に吸収されて行きました。教会は自らの癒しの務めを他に委ね、事実上、責任を放棄してしまったというところがあります。信仰的理想を持って始められた施設や教育機関も、たとえば学校法人化といったことによって財政上の公的な援助を受けるようになり、教会の独自の特色をもった教育や社会奉仕の道が大幅に狭められたようなところがあります。いま教会が、癒しの面においても本来の活力を回復すべきときが来ています。どんなに社会的な制度が整っても、制度の狭間、隙間で困難を強いられ苦しむ者たちや忘れられたり無視されたりする人たちがいます。教会は、そういったところにも意を用い、活動を展開していかなければなりません。
平和の問題も、単なる政治の問題ではありません。人間の問題です。教会の課題です。環境の保全、貧困や飢えの問題も、教会の問題です。
 「ありとあらゆる病気やわずらいをいやされた」。イエスさまが町々村々を経巡ってなされた愛のわざが、この言葉の中に表現されています。この言葉は、今日、日本の社会が、そして世界の人々が直面するあらゆる問題を包含します。一人一人の人々に関心を持ち、それぞれが必要とするあらゆる病を癒された。社会を蝕む病理をもいやされたのである。時代の不幸を癒されたのである。教会の宣教とは、イエスのよって始められた愛の実践を継承するものです。        
 教会において、神の言葉に仕えるものとしての説教者、伝道者としての牧師の位地は、確立しています。この愛のわざを実践し、ありとあらゆる病やわずらいを癒すための具体的な働きを遂行するためには、これまでとは違った新しい視点を持つことが必要かもしれません。愛の実践のわざが、教会の宣教の重要な部分であることを、今日の教会は必ずしも充分に表現し切れていないと思います。教会に、この分野の働きの場が確保されなければなりません。
 イエスはありとあらゆる病気やわずらいを癒されたのです。これは、教会の宣教の三本の柱の大事な一本なのです。 
 <イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気やわずらいをいやされた。>
 町や村を残らず回って、というところにもわたしたちは、大きな関心を払わなければなりません。ニードのあるところに、そのニードにふさわしい宣教の家の柱を立てていかなければなりません。それが、わたしたちの教会の務めです。
これはわたしたち一人一人へのチャレンジです。
主は待っておられる。教会が、動き出すのを。あなたが起き上がり、輝き出すのを。


3.結び
 いま若い世代の人々は、未来に明るい希望をもっていません。彼らの見方、感じ方は間違っていません。この時代に、希望はありません。このままでは、日本は、そしてこの時代は、滅びます。闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいます。実に深刻な状況です。
 しかしわたしたちは絶望しません。仕方がないと、成り行き任せに見ていることはできません。見通しの悪い道でも、「歩きつづける」のです。闇が深いとき、むしろ闇が深いときにこそ、光は輝きをまし、わたしたちの目に飛び込んできます。 
 <しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。>とあります。
 教会は、この時代の希望です。この時代の救いは、教会の宣教にかかっています。世紀が改まり新しい千年紀を迎える節目の年、ジュビリー2000年に50周年を祝う恵みをいただいたわたしたちカンバーランド長老教会は、キリストの体なる教会の一つの枝として、神からの宣教のビジョンとチャレンジをしっかりと受け止め、幼子のようなみずみずしい思いを持って、もう一度新しく歩み出しましょう。
 起きよ、光を放て!

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