考え直す マタイ福音書21:18-32

 「三つ子の魂百まで」と申します。人間は、そう簡単に変わるものではない。いや、変わらない。変われないものだ、という意味でしょうか。自分自身のことを考えても、この年になってつくづく「変わらないもんだなァ」と思うときがあります。

 人質をとって立て篭もった人間が、長い刑期を終えて釈放され、一年するかしないかでまた似たような事件を起こす。同じ過ちを、どうして人間は何度も繰り返すのでしょうか。なぜわたしたちは、ダメな自分を何度も何度も再演してしまうのでしょうか。

 パウロも、ダメな自分に絶望した人間の一人です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と言っています(ローマ7:24)。

 今思えば、わたしの信仰の出発点は、この絶望ではなかったかという気がします。変わりようのない自分、変えようのない自分が、そのままの自分で、新しい者に変えられる。クリスチャンになって、何もかも同じなのに、何もかも違う、そういったことを体験したと思います。「人もしキリストに在(あ)らば新たに造られたる者なり、古きはすでに過去り、視よ新しくなりたり」(コリント後書5:17)。若き日の文語訳が、懐かしく響いてきます。「キリストの愛われらに迫れり。我ら思ふに一人すべての人に代わりて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり。その凡ての人に代わりて死に給ひしは、生ける人の最早(もはや)おのれの為に生きず、己に代りて死に給ひし者のために生きんためなり」(同5:14-15)。

 さて、「展覧会の絵」方式でマタイ福音書を読み進んできました。きょうは、「いちじくの木を呪う」「権威についての問答」「二人の息子のたとえ」という表題が付されている三枚の絵を前にしています。イエスがいちじくの木に近づいて実を探したけれども、「葉のほか何もなかった」。この時代は、そしてそこに生きるわたしたちはどうでしょうか。イエスは、いかなる実を探しておられるのでしょうか。

二人の息子のたとえでは、「後で考え直した」ということばが一つのキーワードになっています。神の前で、自分の人生を見直すということです。このままではダメになってしまう。何とかしなければいけない、と真剣に考え直すのです。

 二番目の絵では、「権威」がキーワードです。イエスは、真に権威ある方として、わたしたちに人生の決断を求めておられます。イエスを信じて命を得るか、イエスの呼びかけを軽く見て、実のない葉っぱだけ繁らせる人生を選ぶのか。その問いの前にわたしたちは今立たされています。

 イエスは、自分はこれでいいと勝手に思っている人々に向かって、人々に蔑視され自分でもろくな者ではないと思っている「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言われました。

人生を考え直すときではないでしょうか。

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