もう一つの物語 マタイ福音書22:1-14

 年甲斐もなくソフトボールの仲間に入れてもらい、一番バッターでピッチャーという思いがけない処遇に気をよくし、ひとついい働きをしようと、じゃんけんで先攻を取った最初の試合で、本格派の女性ピッチャーの剛球を打ち返し、それが内野の小飛球だったのかゴロだったのかその辺も今となっては定かではないけれども、とにかく俊足を買われての起用に報いようと無我夢中でフォアストに向かって走り出したそのとたんに土煙を上げて大転倒してしまった。で、「週報」(917日)に、「のぞみは、主力選手が試合早々転倒のアクシデントに見舞われ、惜しくも二位」と書いたところ、「主力選手」だなんてと思わぬブーイングの嵐が起こり、心外です。

 あとで知ったことですけれども、倒れたところは一塁のベースまであと二三歩のところで、見る角度で、少し早すぎた滑り込みのハッスルプレーにも見えたようです。当の本人は、右側の足の先から手の先、肩のあたりまで土まみれになり、左手で硬直した筋肉をほぐし痛みを和らげようと左の太ももをさすったりもんだりしながら、いっぽうでは物体化した体を心地よく支えてくれている大地の不思議な優しさを感じてもいるという、少し誇張して言えば、ある種の神秘的な体験をしていたようにも思います。

 その時のことやそのあとの第二試合で、みんなの記憶には留まらなかったようですけれども、レフトオーバーの普通に走れば二塁打あるいは三塁打は間違いない大飛球をとばし足を引きずって一塁に達したことなどを回顧して思ったのは、たかが草ソフトボールと言うなかれということです。草でも、妻たちのように応援に声を嗄らした者たちを含めて当事者たちはみなそれぞれに、大いに語りたい物語がいっぱいできたということです。ヒストリー(歴史)とは、ヒズ・ストーリーのことだと言われます。彼の物語、彼女の物語としてのヒストリーがある、ということです。

 小学二年生のたっちゃんも、ピンチヒッターとして打席に立った。バットがやけに長く見える。たっちゃん、バット、短く。バット、もっと短くもてっ!とベンチが叫んでも、たっちゃんは平然とバットのグリップエンドを持って立ち、見事に三回空振りした。

 足がもつれて転倒したわたしと、グリップエンドをもって三振したたっちゃんは、どこか似ていると思います。二人とも、一塁に達し、できれば二塁三塁を回って本塁に戻ってきたいと思っていたのです。はたから見れば、ただの転倒と空振りでしたが、二人のイメージしたものは、究極的には本塁打だったのです。そこに、たっちゃんのそしてこのわたしの物語、ヒズ・ストーリーがある。本塁に達したい、ホームランを飛ばしたいという思いは、たっちゃんのそしてわたしのパーソナルな物語だけれども、そこに留まっては意味をなさないもっと大きな物語の一部でもある。それぞれの物語を小文字のヒストリーとすれば、もう一つの大文字のヒストリーがあるということです。大文字のヒストリーがあって、小文字のヒストリーが意味をもつ。

きょうの聖書「婚宴のたとえ」に、王様から婚礼の招きをもらったのに、ほかの用事があるからと言って、せっかくの招待をほごにした人たちのことが書かれています。彼らは、この世で忙しくしてはいるけれども小文字のヒストリーだけの人たちだったのです。小文字のヒストリ−(個人史)は、大文字のヒストリー(神の救いの歴史)につながって初めて、明確な意味と目的と方向を得るのです。


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