福音の前進 − 新しい人類共同体の形成

 いろいろな讃美歌に表現されている信仰のかたちについて少し考えてみた。

 はじめにマルチン・ルターの作詞作曲による「神はわがとりで」(讃美歌「21377)を見てみる。<1.神はわがとりでわが強き盾、すべての悩みを解き放ちたもう。/悪しきものおごりたち、/よこしまな企てもて、いくさを挑む。 (2,3番省略) 4.力と恵みをわれに賜る/主の言葉こそは進みに進まん。わが命わがすべて取らば取れ。神の国はなおわれにあり。>

 2001年度教会目標「福音の前進」は、ピリピ1:12でパウロが、自分に起こった不利な状況が、「かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と述べているところからとった。ルターも、ここで、歴史の大きな転換点に立ち、教会の改革の前途はけわしいけれども、「主の言葉こそは進みに進まん」と歌っている。1031日は、宗教改革記念日として知られる。1517年のこの日に、ルターは、ヴィッテンベルクの城門に教会の改革を求める95か条の提題を張り出した。それが、宗教改革の発端となった。その二三年後の1520年に、「キリスト者の自由」という小冊子を公にした(岩波文庫で星一つ)。冒頭の部分に、<キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。/キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。>という有名な二つの命題が述べられている。強大な権力機構としてのカトリック教会ももはやキリストにあって生きる者には無力であるという主張が込められているであろう。と同時に、キリスト者は名もない弱い人の前に僕として身を屈して仕えるという信仰の理解が表明されている。上の力強い讃美歌の背後には、こういった新しい福音理解、人間理解がある。

 ルターの「信仰義認」の強調は、しかし、その後の教会の歴史において、カトリック的改悛の秘跡に淵源をもつ西欧的内面性への傾斜と個人主義的信仰形成を促進する役割を担った。

 わたしは、中学1年の終わりに洗礼を受けた。洗礼の感想をいちばん端的に表現できるのは、次にあげる「聖歌」(462)の歌詞のように思う。<わが生涯はあらたまりぬ/イエスを信ぜしより。/わが旅路の光なるイエスを信ぜしより。/イエスを信ぜしより、イエスを信ぜしより/喜びにてむねはあふる、イエスを信ぜしより。>

 しかし、その個人主義的側面には没入できない思いが初めからあった。

 讃美歌「21」の563は、斬新である。<ここにわたしはいます、ホームレスのねむる街。/ここにわたしはいます、凍える子の涙にも。/あなたは?>

 わたしの心の深奥に住まい給う主イエス・キリストは、ここでは、ホームレスの眠る街、凍える子の涙、仕事探す列の中、変革呼ぶ人々、・・・の中にいます方。そこからわたしたちに、あなたはどこにいるかと問い掛けるお方である。心の内奥にあって働かれる主と、外の世界から呼びかけられる主とをどうつなぐことができるか。これが、キリスト者の課題であり、教会の課題である。

 二十世紀が終わるこの時代に、たとえば現代のパレスチナの状況に向けて対症療法的ことばしか持たない教会の宣教は、決定的に重要な何かを欠いているのである。

 「馬槽の中に」や「昔主イエスの」の作者として、また「きよしこの夜」の訳者として知られる由木康先生の「ガリラヤの風薫るあたり」は、是非とも、讃美歌「21」ではなく「旧」讃美歌(228)で歌いたい。<ガリラヤの風薫るあたり、/「あまつ御国は近づけり」と、/のたまいてよりいく千歳ぞ、/来たらせたまえ、主よ、み国を。>

 1番の「いく千歳ぞ」は、2番で「いく千度(ちたび)ぞ」、3番で「いずれの日ぞ」と歌われ、どれも、「来たらせ給え、主よ、み国を」という熱い祈りで結ばれる。

 この歌を歌い始めた中学生の時から半世紀を経て、歴史が前進したのかそれとも後退したのか、分からない。しかし、この歌を歌いつづけたい。福音の前進以外に、希望はない。


HOME  説教要旨目次