荒野で叫ぶ者の声  マタイ 3:1-17
 小椋佳さんが、テレビの企画で、母校の黒門小学校の五年生だったか六年生だったかのクラスで二日間教壇に立たれた。小椋さんの話でイメージをふくらませたこどもたちが、ある者は作詞しある者は作曲した。その中から選んで、クラスの歌ができた。

 小椋さんは、自分で詩を作り曲を作り、自分で歌う。「歌いたい歌が無かったから」だという。いい歌はもちろんいっぱいある。でも、それとは別に、自分の歌がだれにでもあるはず。

 説教とか、証しとかも、そうだと思います。福音は、自分を語るのではない。聖書を語る。聖書のことばを語る。しかし、だれが語っても同じというわけではない。だれでも、語るべきことばがある。証し人になるということはそういうことだと思います。けっして傲慢な意味ではなく、わたしはこう語りたい、このように言ってみたい、表現してみたいという思いがあるはずです。だれの心の中にも。

 マタイがあり、マルコがあり、ルカがある。そして、ヨハネがある。福音書が四つもある。それぞれがそれぞれの歌を歌っている。そして、それが、不思議と、一つの方向を指している。

 イザヤ書を終え次は、いろいろな成り行きから、マタイ福音書を読むことになりました。マタイを通して、その指し示す方向に目を注ぎたい。

 小椋さんの言われたことでもう一つ印象に残ったのは、作詞や作曲は自分の青春とのキャッチボールです、ということばです。聖書にも、<青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ>とあります(コヘレト12:1)。

 人の子イエスが、若き日に、バプテスマのヨハネに出会われ、洗礼を受けられた。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という荒れ野でのヨハネの声は、そのままイエスの宣教の第一声ともなった(4:17)。

 思えばわたしも、終戦後間もなく、キリスト教の学校に入り、中学二年生になる年のイースターに洗礼を受けました。以後の信仰の歩みは、あの頃の自分とのキャッチボールだと言えるかも知れない。ただし「あの頃」は、思い出としてではなく、「神の国は近づいた」という呼びかけとして、前方からやって来る。地平線のように決して到達し得ない神の国に向かって歩いていく信仰が残っているか。あの頃への遠投の力が残っているかどうか。

 梁さんが、35周年記念文集で、国立のぞみ教会に来てから、神を信ずる自信が少しずつ出てきたと述べ、「聖書を読むことも、牧師先生のお話を聞くことも、讃美歌を歌うこともどんどん怖くなってきました」と書いていました。どんどん怖くなってきた、というところが大変に気にいりました。何事によらず怖さが分かってくれば一人前と言います。ですから、「怖くなくなりました」という訂正版がでたときは、少々がっかりしました。梁さんの言いたいことはよく分かりますのでどちらでも構わないのですけれども、ただ怖くなくなるというのではなくて、「どんどん怖くなってきました」、だから怖くないということだろうとわたしは理解します。

 ヨハネが告げイエスが宣べ伝えた神の国の到来の告知も、そのようにして聞くべきメッセージではないでしょうか。

1999/9/5  

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