荒れ野の誘惑  マタイ 4:1−11
 聖書勉強会の新しい方式を開発しました− などと大げさに言うほどのことはないちょっとした思いつきですけれど− 。「展覧会の絵」方式です。福音書の学びなどに特に有効です。

 「展覧会の絵」は、ムソルグスキーのピアノ曲の題です。ラベル編曲の交響曲が有名です。タンタン・タタタッという導入部があって、展覧会の絵を順番に見ていきます。 展覧会場(美術館)には、いろいろな人がやって来ます。行きずりの旅 人、美術の専門家、熱心な鑑賞者、好奇心の訪問者、・・・。―教会も、これに似たところがあります。だれにも開かれている。信仰暦何十年という人がいる。日曜日の礼拝に、ひょうっこりお出でになる方もある。―それぞれが会場に入り、ぐるっと見て回り、ある人はもう一度ある作品の前に戻ってきてじっくり鑑賞する。見方や理解の度合いに差異は当然ありますが、展覧会場を訪れた人たちはみなそれぞれの印象や感想を抱くことになります。
 
 「展覧会の絵」方式の着想は、聖書を一緒に読むために夜集まる「ニコデモの会」を再開し、マルコ福音書を読むことになった時に得たものです。一章ずつまとめて読む。一つの章が、いわば展覧会場の一つの部屋。そこに は、いろいろな絵が掛けられている。都合のいいことに、新共同訳聖書で は、一つ一つの絵に表題が付されている。さあっと部屋を一巡したところで、さあ如何でしたか、と問う。そこから、始まるわけです。

 この間の晩のニコデモには、6人の方たちが見えた。二人は、信仰歴の長い教会員。一人は、教会数か月目の求道者。一人は、立川の教会の方。そして、あとの二人は教会が初めての方たち。
 最初の部屋を一巡したところで、初めてという方に、キリスト教というとどんなイメージを持っていましたか、と聞く。即座に、「困っている人たちを助けるとか、そういった感じですね」、という答えが返ってきました。

 そうなんだ。宣教(伝道)とは、困っている人たちを助ける、ということなのだ。これに尽きる! 顔には出しませんでしたけれども、新鮮な衝撃に、目が覚める思いがしました。

 この間、献堂35周年の記念礼拝で読んだあの個所、「教会のミッション(わたしたちのつとめ)」という題でお話したときの聖書の記事(マタイ 9:35-38)、が心に浮かびました。<イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。> まさに、ニコデモで読み始めたマルコの最初の部屋の情景と重なります。<また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。> イエスの宣教は、この深い憐れみから始まった。目の前でさまざまの問題で苦しむ人々への深い同情(痛みを共有すること)から始まっている。そこに、神の国の福音の宣教がある。

 しかし、「困っている人たちを助ける」とはどういうことか、今日の子育ての例をあげても、必ずしも自明のこととは言えません。イエスは、ガリラヤでの伝道を開始する前に、荒れ野で四十日四十夜を過ごし、サタンの誘惑を受けられたました。何がほんとうに人を助けることになるのか。何が、救いとなるのか。40日の断食は、そのことをめぐっての悪魔と戦いだったのです。
 
 「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」お方の口から発せられたことばとして、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というお言葉は、実に重い意味を持つと言わなければなりません。

 展覧会の絵を眺めながら、今日、この国で、困っている人たちを助けるとはどういうことかをあらためて思い巡らしています。
1999/9/12  

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