幸 せ は ど こ に  マタイ 5:1-16

 どこに立って(あるいは座って)見るかによって、同じものがいろいろに見えます。まるで違って見えることさえあります。聖書も、そうです。自分をどこにおいて読むかによって、恐ろしいほど違ったものになります。視点、視座が問題になる所以です。

 「幸いなるかな」で始まる山上の説教、ルカ版(「平地の説教」)では、<貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。/今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。>というフレーズで始まります。貧しさや、飢え、あるいは泣かないではいられないような状況、これは、人が好き好んで選ぶ状況ではありません。選択の余地のないところである人々は悲惨な状況に置かれている。その人たちに向かって、あなたがたは「幸いである」ということばが投げかけられている。決して受け入れやすい言葉ではありません。理解しやすい言葉でもありません。しかし、端的に、約束と慰めに満ちた力強いことばでもあります。

 マタイでは、「心の貧しい人々」「悲しんでいる人々」「義に飢え渇く人々」は、幸いである、となっています。精神化されているわけです。かりに、貧しさや、飢えや、悲惨が、生活経験に無いひとびとだとしても、心をよく働かせて、それを自己の経験に取り込むのは全く不可能ではない。戦争の経験の無い今日の若者たちが、戦争のことを聞かれても何も分かりませんと言えばそれでいいのか。そうではないということです。想像力を最大限に駆使して、戦争の悲惨の中にわが身を置いて見る。人間の愚かさや、残酷さや、罪が少しずつ見えてくるのではないでしょうか。本を読んだり人の話しを聞いたりするのは、そのためでしょう。あるいは、ある状況に進んで入り込んでいく。

 で、想像力への呼びかけとしてマタイのこの箇所を読むことも大事なのです。それには、ある態度決定が必要なのだと思います。視点とか視座というものも、固定的に宿命的に考えてはならない。金持ちだから金持ちの視点、貧乏だから貧乏人の視座というのではない、決断としての選択があると言わなければならないのです。

 <キリストは、神の身分でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。>(フィリピ 2:6-8)イエス・キリストでさえ、決断的に自己の運命を選び取られたのではないでしょうか。初代の教会の人たちは、最も低い所に身を置いて生きられたイエスを賛美して上のように歌ったのです。そしてパウロは、自分のためにではなくて、他者のために、それも、小さい弱い人たちのために生き、死なれたイエス・キリストの心を心とせよ、と言ったのです。

 パウロは上に引用したキリスト賛歌に続けて、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とも述べています。自分の救いの達成は、どのようにして得られるものなでしょうか。それは、決して、単に「自分のことを追い求め」ることではありません。真の幸福は、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、・・・にあることを悟り、そこに身を置いて生き始める態度決定が大事なのです。

99/09/26  

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