福音のはじめ マルコ福音書1:1-8

<神の子イエス・キリストの福音の初め。> マルコ福音書は、慰めに満ちたこの序唱で始まり、15節の<「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」>のイエスの第一声で、いよいよ福音宣教の幕が切って落とされる。基調音は、「福音」、「よき知らせ」。イエスは、福音・よい知らせそのもの。イエスと共に、神の国が到来する。イエスの到来と共に、神の愛の国がわれらのただ中に実現する。

 福音は、いかなる状況に向けていま語り告げられているか。状況の認識、時の認識が、いま問われている。<荒れ野で叫ぶ者の声がする、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」> ヨハネ福音書は、この状況を、<光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。>と表現している(1:5)。

 闇を知らなければ、光は分からない。光は、見えてこない。

 今日のこの国の悲惨は、闇を知らないところにある。闇を知らない。だから、光を求めない。福音を理解することができない。闇は、ますます深まり、ついに滅びに至る。まさにどん詰まりの状況に、いまわたしたちは来ているのではないか。

 <洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。>

 罪とは、闇の中にいて闇を知らないことである。危機のときを知らないことである。ヨハネは叫んで言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7-9

 誤解を恐れずに言えば、アフガニスタンの木の一本もはえぬ荒涼たるどこかの山岳地からアメリカに向かって挑戦的なアジテーションを放つオサマ・ビンラディンの姿をテレビで見ていると、その背景といい、いでたちといい、何ほどか洗礼者ヨハネのある一面をしのばせるものがないでもない気がする。<領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込め、こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。>とルカは書いている(3:19-20)。ヨハネも、絶望の中で、勝ち目のない戦いを戦ったのかも知れない。彼は、捕らえられ、首をはねられる。闇は、深い。

 <ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。>のである。

 ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と語っている。

 ビンラディンに正義があるとは思わない。しかしだからと言って、アメリカが正義だとは到底言えない。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:9-20を見よ!) 

 まさに絶体絶命のどん詰まりにおいて、いま、イエス・キリストの福音を聞く。
2001/10/14

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