天に聞く マルコ福音書1:9-15

 清水郁子先生のことを思い出している。母校O学園の創設者として知られる清水安三先生の夫人。御茶ノ水出のクールでいかにも秀才肌の郁子先生は、人気の点では庶民派の安三先生にかないけれど、この方を抜きにしてO学園を語ることはできない。

 授業の延長でわたしを含む数名の高校生が、郁子先生の執務室に招き入れられ何か話を聞いたことがあった。何が話の中心だったかは覚えていないが、一つ印象に残っていることがある。先生が、英字新聞を広げてあちこち目で追いながら小さいコラムに目をとめ、「人工頭脳」の開発が進んでいる。今に世の中が変わるでしょう、と言われたことです。いまや世界中がIT革命の時代だが、戦後間もない食うや食わずの時代に、「人工頭脳」の小さな記事に目をとめ、関心を喚起する。さすがは教育者である。

 これより前の中学生の時のこと。朝の礼拝で、先生がいま思えばエフェソ書6章からお話された。話の細部は覚えていないけれど、聖書の言葉を引用しながら「神の武具を身に着けなさい」と言われたのが、なぜか鮮烈な記憶として頭に残っている。

 きょうの聖書の個所を読みながら、郁子先生を思い出し、コンピューターと神の武具のコントラストを考えていたわけである。O学園はいまは大きな学園になったが、近年、「キリスト教色を薄めないと、私学冬の時代を乗り切れない」派と、「私学の生命線は建学の精神だ」派との間に熾烈なせめぎあいがあったとか。学校は、一つには経営であるから、生徒獲得の苛烈な競争を生き残るためにはキリスト教色云々の議論も出てくるのかもしれない。

それはともかくとして、これは学校の話。わたしたちにとって大事なのは、教会の話である。

まさか、何とか教会と名の付くところで、キリスト教色を薄めなければ具合が悪いなどということが論じられることがあるとは、夢にも思わない。

しかし、ほんとうはどうか。

礼拝堂に星条旗を運び込み、真ん中に立て、それを囲んで、讃美歌と愛国歌を歌っているアメリカの教会は、どうか。これほどにあからさまにキリスト教色を薄めた集会はないと思うが、それに気づく者はむしろ少数派のようである。つまり、アメリカのキリスト教は、全部とは言わないが、多くは、一皮むけば、極めて非キリスト教的なキリスト教であった。それがいま明らかになった、と言ってもいいのではないか。

「悔い改めよ」「福音を信ぜよ」とは、まさにこのような状況にある「キリスト教徒」たちに向けて語られる言葉ではないのか。

アメリカのことを言っているのではない。この国の教会のこと、このわたしたちの教会のことを言っているのである。この世の原理が、教会を支配してはいないか。サタンでさえ、聖書の言葉を用いてイエスに挑戦し、誘惑する。一皮むけば、この世の原理がうごめいているのではないか。

イエスは洗礼を受けられたとき、<天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。> 天に聞くか、地に聞くか。この世の原理に立つか、神の国の原理に立つか。福音の宣教は、この問いの前に立つところから始まる。それが、荒れ野の試練だった。

2001/10/21

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