満ちる時 マルコ福音書1:14-20

 中学一年の終わり、328日イースターに、洗礼を受けた。遠い昔のことなので、はっきりしたことは覚えていない。ただ、「すべてを捨てて従う」(記憶では、「一切を捨てて」ということば)ということが、―それをどう理解しどのように自分に説明したかは忘れたけれども― 受洗の決心におけるいちばん大きな問題だったことを、ペトロをはじめとする四人のガリラヤの漁師たちがイエスに見出され、最初の弟子になったときの記事を読みながら、あらためて思い出している。

 <二人(ペトロとアンデレ)はすぐに網を捨てて従った。>

<この二人(ヤコブとヨハネ)も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。>

ルカ福音書では、<(すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」)そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。>

やはり、イエスの弟子になる絶対的な要件は、「捨てて従う」ということだ。ここをあいまいにしてはならない。ここがはっきりしないと、クリスチャンになったと言っても、何一つ変わらない。一皮むけば、敬虔の厚化粧の下から、もとの顔が露出するのである。これは、個人の信仰について言えることであり、キリスト教会とかキリスト教国とかいう塊について言えることである。アメリカは、圧倒的にキリスト教の国である。しかし、連日連夜の、星条旗と God, bless America 等の愛国歌にはうんざりする。大好きなアメリカではあるけれども、アメリカ人だけが人間なのか、神はアメリカの守護神なのか、と言いたくなる。そこでは、アメリカが主で、神は従なのである。あまりにもあからさまな主客転倒のこの姿は、一皮向けば我々自身の実体であるのかも知れない。我々の神も、「主なる神」ではなく「従なる神」でしかないのではないかということである。

「捨てて従う」ことともう一つ重要なことは、「すぐに」従うということだ。

イエスの弟子になるということについて、錯覚しているところがありはしないか。つまり、自分のチョイス(選択)として考えているところはないか。イエスの弟子になるということが起こるのは、こちらの選択(好み、都合、勝手)ではない。神の側の選びなのだ。イエスが、ペトロたちを見出し、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのだ。すべては、イエスにおける神の選びから始まる。我々の側の用意や態勢が問題ではない。我々は、「すぐに」従うのである。

「時は満ちた」「神の国は近づいた」。イエスによってもたらされる新しい状況が、「イエスにおいて『既に』到来した時」として、「イエスにおいていま『将(まさ)に来たらんとする』時」として語られている。『既に』と『将に』の緊迫した状況において、「悔い改めて福音を信じなさい」と、決断への強い呼びかけが発せられている。

 時(カイロス)は、最後のときとして、急速に縮まって行く。縮まる時が、同時に、将に来たらんとする時として限りなく引き延ばされて行く。このことをペテロ書はこのように書いている。<愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。>(ペテロ二3:8-10

 終わりの時へと縮まりながら引き延ばされている決定的なカイロスの前に、いま立たされている。

2001/11/04

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