衝 撃 マルコ福音書1:21-28


 蝶墜ちて 大音響の 結氷期

 この俳句ほどに持続的にわたしの心に強烈な衝撃を与えている歌はない。数年前に、朝日の「折々のうた」で紹介されたものである。早速わたしの理解を、下手な英語で書いてみた。”A butterfly thrashed/ into the frozen lake making/ an enormous sound.”

 蝶が、氷結した湖面に墜落して、かさっとも音はしない。しかし、そこに大音響を聞く者もいる。イエスの到来は、まさにそのような事件である。最初のクリスマスの夜、あの羊飼いたちは、闇夜に天の軍勢の大合唱を聞いたではないか。

 教会は、この小さな大事件を証する群れである。東京の、西の外れの、小さな町の、小さな群れの集まりにおいて、きょうも、イエスの神の国の福音が語られる。そこで、いったい、どんなことが起こっているのであろうか。

 さて、「会堂」(シナゴク)は、教会の前身である。エルサレムに、ガリラヤに、異教の地に会堂が建てられ、ユダヤ人たちが安息日に集まり、聖書を読み、その解き明かしを聞いていた。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロをはじめとする四人の男たちを最初の弟子としたイエスは、湖畔の町カファルナウムに行き、安息日が来ると早速会堂に入り、教えられた。その教えは、それまでのいかなる教師たちの教えとも違っていた。権威ある新しい教えに人々は驚いた。衝撃が走った。衝撃は、ガリラヤ中に波及し、やがてエルサレムに及び、イエスの十字架、蝶墜ちての事件へとつながって行く。その最初の兆候は、すでに、カファルナウムの会堂において見て取ることができる。

 <この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいてさけんだ。>で始まる記事(23節以下)を、悪霊追放・悪魔祓いの奇跡物語として片付けるのは、手軽すぎる。会堂内に早くも起こったイエスの教えに対する反撃が問題になっているのである。この反撃が、実は、福音書全編にわたって内在する問題なのである。イエスの教えの正当性を強い衝撃を持って受け止めながら、しかしこれを素直に承認することが出来ない。イエスとの出会いにおいて経験される引き裂かれの物語である。「我々を滅ぼしに来たのか」と男は叫ぶ。古い時代が崩壊し新しい時代が到来するその狭間に立って逡巡する者の姿である。

イエスにおいて我々はまさに危機の前に立たされるのである。ペテロたちがすべてを捨ててイエスに従ったように、会堂に集うユダヤ人たちが、古い時代を後にして新しい時代に入って行くことが出来るかどうかが問われていたのだ。古い酒を飲んだ者は、新しい酒を求めない(ルカ5:39)。男は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫んだのである。「かまわないでくれ」は、一体、あなたと自分たちとどんな関係があるのか、ということばである。

男は、一方で、イエスの「正体は分かっている。神の聖者だ」と証言しながら、他方ではこれを承認することは出来ない。そうすることは、ユダヤ人共同体のシステムにノーをいうことであり、そこに自己の存在の根拠を置く彼自身の存在(アイデンティティ)を否定することになるからある。イエスとの対面は、どの時代においても、どこにおいても、この男が経験した強烈な引き裂きの経験をもたらすのである。

911日、ある一つの時代が大音響と共に崩壊した。そこから新しいものが生まれてくるのか。それとも、古い時代のバベルの塔の再興がはかられるだけなのか。

男は、黙った。時を経て、沈黙の中で蓄積されるエネルギーが、いかなる方向に向けて解き放たれるようになるのか。それが、問題である。
2001/11/18

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