変革の芽 マルコ福音書1:29-34

 社会や時代を揺るがす変革の芽は、時に、日常生活のちょっとした出来事の中に隠されている。イエスが、熱を出して寝ていたペトロのしゅうとめの手をとって治された。それ自体は、それほど大きな事件ではない。病気そのものも、それほど重いものではなかったように見える。

 付随的なことから見ていく。ペトロをはじめ、最初の弟子たちは、一切を捨ててイエスに従った。マルコ10:28にも、<ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。>とある。「何もかも」には、家族も含まれる(マルコ1:20, 10:29)。しかし、ペテロは、カファルナウムかその近くに家があり、家族と一緒に住んでいた。イエスによって病を癒された人たちの第一号が、ペテロのしゅうとめであったということは、やはり興味深いことである。

 パウロが、「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(コリント一9:5)と書いていることからも分かるように、ペトロは、後年、教会の指導者として各地を巡回するようになってからも、漁師時代からの愛妻を伴って歩いて回ったようである。パウロが上のように言ったは、働き人の扱いにおいて、教会に、非人間的な精神主義の空気が支配することのないためであった。人間らしい温かさこそ、教会の生命である。それなしには、すべては無に等しいのである(コリント一13)。

 後々大問題に発展していく火種は、イエスの一行が、会堂を出て、その足でペテロたちの家に行き、そこでイエスがペテロのしゅうとめの病を癒したというところにある。つまり、イエスは、正当なユダヤ人なら安息日にはすることのないことをあえて人々の目の前で行ったのである。会堂で聖書の解き明かしをしたばかりのイエスが、おきて(律法)破りの行為に及んだのだ。「権威ある者としてお教えになった」イエスは、振る舞いにおいても、伝統や慣習にとらわれない権威ある者として自由に行動されたのである。人々の間に少なからぬ驚きが走ったであろうことは容易に想像がつく。これを見た町の人たちは、しかし現金なもので、「夕方になって日が沈むと」、つまり、あとで厄介なことにならないために、安息日が終わると、癒してもらうために病人や悪霊につかれた者を連れて続々とイエスのもとにやってきたのである。

 ガリラヤの小さな町で起こった小さな出来事が、時代を揺るがし歴史を動かす大きな事件に発展していくことに、人々はまだ気がついていないようである。主イエス・キリストは、わたしたちのような取るに足りない者たちのもとに来てくださり、出会ってくださり、一人一人の手をとって起こしてくださり、主のために小さなご用をさせてくださる。その小さな出来事が、古い時代の壁に、新しい時代に向けての小さなしかし決定的な穴をうがつものであることに、どこかではっと気づくものでありたい。

 「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである。」(マルコ4:31)。「わたし(イエス)が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ。」(ルカ11:20)。

01/11/25

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