教会のミッション マルコ福音書1:35-44

 教会のミッション(本務)は何か。マタイ9:35を見るがよい。<イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。>「教え」、「宣べ伝え」、「いやされた」。ディダスコー、ケルッソー、セラピューオー、これが、教会のミッションの三本の柱である。

 マルコを読んでいる。きょうで1章を終える。1章に、教会のミッションである三本の柱を表すことばが、テクニカルターム(術語)のように用いられているのを見ることができる。14-15節。<ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の国を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。> 21節。<一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。> 34節。<イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にもの言うことをお許しにならなかった。> 

 さて、きょうの箇所。<シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」>

 カファルナウムの人たちは、イエスをカファルナウムに留めておこうとした。しかし、イエスは、「近くのほかの町や村へ行こう」と言って、彼らをあとに残して行ってしまわれた。「いつまでもあると思うな親とかね」とか言いますが、イエスは、いつまでもそばにいてくれる便利屋さんではない。行ってしまわれる方である。イエスの神の国の福音の宣教・ケルッソーは、一生一代のあなたの決断を求める。たった一度の出会い、たった一度の決断の時として、イエスはあなたのもとに来られる。ペテロたちは、その出会い、その時を捕らえた(ものにした)。

 信仰は、もちろん、生涯の業である。進歩のない信仰は、ただの信心である。ユダヤ人が会堂に集まって聖書を学んだように、キリスト者は、教会に集まり、日曜日には必ず礼拝を守り、普段の日もことあるごとに、聖書を読み、学ぶ。聖書の言葉を通して、イエスに出会い、神の臨在に触れる。十年一日の如くはよいが、ディダスコーを怠って、進歩のない信仰に甘んじるのは、退廃である。日ごとに、「権威ある新しい教え」によって、古い理解や、先入観、固定観念を崩され、新しくされていかなければならない。

 実践を説く人は多い。実践の重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはない。実践がなければ、信仰は死んだものである。しかし、イエスに従って行く決断と日々の修練とを欠いては、実践は、空回りするだけである。われらの主はご自身、<朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈られた。>

 教会のミッションは、われわれの務めであるが、われわれの務めではない。神のミッションである。イエスにおいて神から託された務めである。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってペテロたちを召された。弟子たちを呼び集め、そばに置き、「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせ」られたのである。

 この教会が、三本の柱によって立つ、宣教の教会となることを祈る。
2001/12/02

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