友のために(1) マルコ福音書2:1-12

水平思考というのがある。四角い囲いの中の問題を解決するのに、四角い枠の中であれこれ議論する。いつまで経っても堂堂巡りで解決に至らない。その時、一度思い切って四角い枠の外へ出てみる。そこからことをもう一度やってみる。新しい視点、発想、そして冒険。そこから、予想外の大きな展開がもたらされる。これが、わたしの知る水平思考である。

 四人の男たちが、イエスに癒してもらうために、寝たきりの男を速成の担架に乗せて運んできた。家は、入り口まで人でいっぱいで、中に運び入れることはできない。あきらめて引き上げるほかない。しかし、彼らは外から屋上にのぼり、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」のである。

 まさに、水平思考である。

 しかし、ここで見落としてならないのは、彼らの水平思考が成り立つ場がそこにあった、ということである。彼らの常識離れした思考・行動を、イエスは、受け止めてくださった。それが、イエスの場である。「イエスはその人たちの信仰を見て」、屋根からつり降ろされた病人を癒されたのである。イエスが行かれるところはどこででも、福音書を読み進めて行く中で見るように、そのような場が出来事として発生するのである。それが、教会という場、だとわたしは思う。ただの「家」が、教会になるのである。

 <ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれ考えた。>彼らは、彼らの理解する律法という四角い枠組みの中でしか発想することのできない人たちである。自分たちの発想の枠組みの中に、人々を閉じ込めないでは我慢のできない人たちである。はじめに律法(規則)ありきである。人間不在である。後日、彼らとイエスとの間に安息日論争が持ち上がるが、イエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と言って、彼らの立場を一蹴される。

 アドベント第二主日である。二十一世紀最初の年のクリスマスまで、あと二週間。ことし、この暗黒の年に、どうしたら、「クリスマスおめでとう」と言えるだろうか。博士たちは、闇の中で、クリスマスの星を見た。羊飼いたちも、闇の中で、天使の歌声を聞いた。彼らは、とにかく、歩き出した。わたしたちも、行ける所まで行くほかない。

 四人の男たちが病人を運んでイエスのいる家に着いたとき、家は、戸口までいっぱいで中に入ることができなかった。律法学者たちのように意図的にイエスの働きを妨げるのではないにしても、わたしたちも、道を求めてやってくる人たちの前に、無意識のうちに大きな壁になっているかも知れない。

 クリスマスを目指して、行ける所まで行ってみようと思う。イエスさまの声が、人垣の向こうから聞こえるかもしれない。それからのことは、その時、考えることにしよう。<いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。>

2001/12/09

HOME  説教要旨目次