安息日の主 マルコ福音書2:23-32

 文明の衝突、とりわけ宗教に根を持つ文化のぶつかり合いは、経済やテクノロジーにおける止め難いグローバル化の進展と逆比例的に働く最も厄介な問題として、二十一世紀前半を生きるわれわれの前に立ちはだかるであろう。

 宗教の見直し。今日、これこそ、人類火急のテーマである。

 ジョン・レノンは「イマジン」で、宗教などいらない、と歌っている。単純に宗教を否定しているのではない。戦争を引き起こす宗教など必要ない、と叫んでいるのだ。彼の歌う「マザー」という歌をいちど聴いて欲しい。お袋よ、どうしてオレを捨てたんだ。親父よ、オレは親父が必要なんだ、なのになぜ行ってしまったんだ。しょうがない。グッバイ。さよなら。・・・お袋よ!親父よ!帰ってこいよォー!と振り絞るように歌う。母親に早く死なれ、父親には捨てられたレノンの、韓国語で言う「ハン」(恨)が切々と歌われている。母と父に別離を告げながら、闇の中で、マザー、カムバック!ファザー、カムバック!と叫びつづける。それが、彼の無神論であり反宗教である。

 イスラム教であろうと、仏教であろうと、キリスト教であろうと、テロで何千人も殺したり、大量殺戮の爆弾を何発も投下してまだ物足りない顔をしている連中の宗教など、どんなに偉そうなことを言っても信じることは出来ない。そんな宗教は、断じて必要ない。キリスト教がそのような宗教なら、わたしはキリスト教をやめる。

 宗教の見直しは、今日火急のテーマである。

 キリスト教を見直すところから始めなければならない。罪、罪と、自分の罪を敬虔に告白する人たちの罪とは何か、お伺いしたい。いったい、どんな罪を神さまに赦していただいているのか、お伺いしたい。罪を赦していただいて、どんな生き方をしているのか、お伺いしたい。

 <ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。>

 ファリサイ派にとっては、安息日に麦の穂を摘むことが、重大な律法違反であり、罪である。彼らの宗教は、そういった宗教である。彼らの理解する安息日の聖別とは、そういうことである。これに対してイエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われた。

ここに、二つの全く相反する宗教のかたちをみることが出来る。

ファリサイ派の宗教は、長い歴史の中で、原点から大いにそれて行ってしまった宗教である。安息日は、古代において、奴隷や家畜や寄留者たちの「人権」回復の時だった。モーセの十戒(出エジプト記20:8-11)に明記されている。自分の目で読み自分の頭で考え自分の心で感じない彼らは、これを見落としているのである。

この教会の今年の年題は、「神の国を求めなさい」である。「神の国を求める」とは、「人間の国を求める」ということである。人間が人間として生きる共同体を成り立たせない宗教など、わたしたちは信じない。
2002/01/06

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