小舟を用意せよ マルコ福音書 3:7-12

二年程前に東北の山間の小さな町の教会へ赴任していった同年輩の牧師夫妻から年賀状が届いた。聖書の一節と住所氏名だけのそっけないものだったけれども、状況を察するに十分だった。

 <「主よ、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、おことばですから、網を降ろしてみましょう。」ルカ福音書55 2002年元旦 教会名と住所氏名>

 しみじみ、ご苦労さま、とはがきに目礼した。

 あの日、ペテロたちは、大漁の奇跡を見た。しかし奇跡を見せられた時、彼らの関心は最早そこにはなかった。彼らは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われるイエスの召しに応え、従って行った。徒労に賭ける決心がついたのだ、と理解する。

人間をとる漁師になるとはどういうことか。

人間になれ、人間を探せ、ということではないだろうか。

エレミヤ書に、<エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。/広場を尋ねて見よ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。/いれば、わたしはエルサレムを赦そう。>とある(5:1)。エルサレムに人間がいるか、一人でもいるか、という問いである。数として人を見る(教勢)のではない。人間を捜すのである。

<イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られた。・・・おびただしい群衆が従った。・・・イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。>

弟子たちは、この時、大漁の奇跡を見た。ビルを建て、事務所を設け、それらしい宗教施設を整え、更なる発展の基盤を整備する絶好のチャンスが巡ってきたのである。しかし、イエスは、小舟を用意せよ、と言われた。

ここに、教会が教会になるか、ただの繁栄する宗教団体になるかの境目がある。境目の見極めは、意外に難しい。ケルッソ−、ディダスコー、セラピューオーのわざを中途半端に終わらせることではない。教会に課せられた宣教の全領域を徹底的に追及しながら、しかもそれて行ってしまわない。これが、教界の現状を見れば分かるように、意外に難しいのである。

 人々は、自分にとって有用な有り難い神を求め、イエスを追いまわすのである。イエスは、彼ら深くあわれみ、彼らのニードにこたえられる。しかし、イエスに最初に出会った時のペテロたちのように、彼らはまだほんとうのニードを知らない。イエスは、彼らを後に残して、「立ち去られた」のである。人々は、神を囲い込み、自分たちのニードに間に合うものとして、自分たちに適合させようとする。イエスは、これを振り払って出て行かれるのである。(1:35-39も見てみよう。)

 人々のニードをいかにして神のニードへと連絡していくか。そこに、人間をとる宣教の課題がある。いま注意して読まなければならないのは、<それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ、その間に群衆を解散させられた。>といった記事である(マタイ14:22、マルコ6:45)。

2002/01/13

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