思い描く力 マルコ福音書3:13-19
信仰のかたち・教会のかたち

 第一のものを第一にする。これを外しては、教会は、塩味を失った塩であり、何の役にも立たないものとして外に捨てられ、人々に踏みつけられるほかない。

 第一のものとは何か。「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」ということである。信仰のかたち、教会のかたちは、これによって決まる。

 教会がこの本来の務めを忘れて久しいのではないか。アメリカの教会に、それははっきり現れている。アメリカにおいて、キリスト教はいまや「国家神道」である。国家のための宗教である。はじめに国家あり。国家に奉仕するものとして、国家に有用なものとして、教会はある。教会は、国家のための宗教の役割を積極的に担っている。

 かつて、ドイツの教会が、国家に対してそのようであった。日本の教会が、国家に対してそのようであった。

 イエスの宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。戦後日本の教会に、はたして、この「悔い改め」があったのであろうか。いや、過去形の問いとしてではなく、現在形の問いとして、いまわれわれ自身に問わなければならない。

 このように書いて行くと、重い気分になってくる。なぜ自分の宗教について、こうも悪く言わなければならないのか。まさに「自虐史観」ではないか。アメリカの多くの素晴らしいクリスチャンの同僚や懐かしい教会やそこで出会った人たちのことを思うと、悪く言うことはないではないかと思ったりする。

しかし、教会は、なぜいざという時にいっせいにずっこけてしまうのか。キリスト教国と言われるアメリカの教会の9.11以降のずっこけぶりは、目を覆いたくなるほどにひどいものだ。しかし実を言えば、9.11に急にあのようになったわけではない。潜在していたものが顕在化しただけのはなしである。そしてそれは、人事ではない。日本の教会も同じと見ていい。「本来の伝道」に専念するといいながら、教会の本務を忘れているのである。それは、イエスの神の国の宣教とは異質のものである。

ずっこけない力としての、構想力、思い描く力をつけなければならない。「神の国を求めなさい」とは、それへの呼びかけである。

 イエスは、「あの男は気が変になっている」と言われた。これを気にして、身内の者たちはイエスを「取り押さえに来た」。他方、エルサレムから当局の者たちがやって来て、「あの男はベルゼブルに取り付かれている」と難癖をつけ、イエスをイスラエルの社会から消し去ってしまおうとした。イエスの身内の者たちの思い描く力は、今日のことばで言えば、マイホームの域をでることができなかったのである。エルサレムのお偉いさんたちの思い描く力は、民族宗教共同体の域を出ることができなかったのである。つまり身内の者やエルサレムのお偉いさんには、好意からにせよ、悪意からにせよ、既存の枠組みを越えて構想し、思い描く力はなかった。イエスの活動が彼らの思い描く力の限度内に収まるものであれば、問題はなかったのである。

 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」というきょうのイエスのことばは、既存の家族や民族や宗教や国家の枠組みを越える神の国の福音へと、わたしたちの思い描く力を解き放つのである。

2002/02/10

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