「よい土地」とは マルコ福音書4:1-25

 ある種は道端に、ある種は石地に、ある種は茨の中に、そしてある種はよい地に落ちた。よい地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだ。新共同訳聖書が<「種まく人」のたとえ>と表題を付しているこのたとえ話は、こどもにも理解できる分かりやすい話のように思える。ところが、イエスの周囲の者たちはイエスに、たとえが何を意味するのかをわざわざ問いただしている。それに対してイエスは、次のように答えておられる。<「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」>

 次いでイエスは、たとえの説明をして、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と、言っておられる。

 明々白々ではないかと分かったつもりの者からすれば、イエスさま、この話のどこが分からないというのでしょうか、と反対に聞きたい気にさえなるというものである。

 そこに、落とし穴がある。

 分かったつもりの聖書理解ほど、危ないものはない。「たとえ」と訳されている言葉には、「なぞ」という意味も含まれている。簡単に分かっては、いけないのである。分かったつもりになっては、いけないのである。これは、聖書の記事全般について言えることであろう。自明の箇所など、一ヶ所もないのである。使徒パウロは、コリントの教会の指導者たちに、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と、書いている(コリント一8:2)。これは、わたしたちの聖書の理解、信仰の理解についても言えることである。

 偉い人の言うことを鵜呑みにしてはならない。活字になった文書を、簡単に信じてはならない。お決まりのはなしを無批判に受け売りして事たれりとしてはならない。

 聖書の再読、再々読の必要が言われなければならない所以である。
 聖書の読み直しから、宣教の見直し、教会の建て直しが始まるのではないか。「恐れるな、小さい群れよ」と呼びかけられる群れとして、及ばずながら、この問いを自らに課して進んで行かなければならない。

 そもそも、「よい地」とは、どのような地であろうか。更地のことではないか。まっさらな更地のことではないか。種蒔く人は、まっさらな更地を捜しておられるのだ。われわれは、心をまっさらな更地にして待たなければならない。そんなことが、できるかどうか知らない。

 イエスは、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」、と言われた。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と言われた。キリスト教2000年の歴史を経て、気が付いてみれば教会はウイルスまみれである。あらゆるかたちのウイルスに汚染され、もはやこの時代に役立たぬものになっている。汚染された地を更地に変える力は、われわれにはない。

 一粒の種が芽生え育てば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ。それは、われわれの側の可能性ではない。神の可能性である。神の奇跡に、われわれの存在を賭ける。

2002/02/18
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