向こう岸へ渡れ マルコ福音書4:35-41

 小川幸さんは、そのころご主人をガンで失い、失意のどん底にあった。わたしたちがけやき台のSさんのお宅で開いていた家庭集会に誘われて出席し、はじめて聖書を読んだ。それが、「向こう岸へ渡れ」というきょうの箇所だった。彼女は、これだと直感し、向こう岸へ渡る決心をし、教会の礼拝に出席するようになった。それ以来30年を経て90歳になる今日まで、十数年前に昭島へ引っ越してからも、まず欠席することなく日曜日の礼拝に出席しておられる。切り替えの早い思い切りのよさと最後の明治人の気骨とを備えた見事な信仰の証しである。

 <その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。>

 すでに日は西に沈もうとしていた。鳥たちもねぐらに帰るころである。しかし、イエスは、「向こう岸」へ向かって出発しよう、と言われるのである。<そこで、弟子たちは群集を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。>

 弟子たちも、疲れていたに違いない。え、これからまた出かけるのですか、という感じではなかったか。時間帯は反対だが、ペテロたちがイエスに初めて出会い弟子とされたときのことをルカ福音書は、舟から群集に教えておられたイエスが、<話が終わったとき、シモン(ペテロ)に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。>と物語っている。

 きょうのところでも弟子たちは、忙しかった一日を終え群衆から解放されてほっとしたところで、さあもう一仕事だ、と呼びかけられたようなものだった。ほんとうの仕事は、終わりから始まると言うことであろうか。

「イエスを乗せたまま」というのが何か可笑しくて面白い。お荷物みたいにも見える。「イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」というのが、またまた可笑しい。大勢の人々を相手に「多くのたとえで御言葉を語られた」イエスさまは、くたくたに疲れておられた。そんなイエスさまを舟にのせたままにして、弟子たちはとにかく「漕ぎ出した」。いまならさしずめ車に分乗して出かけるようなものだ。ペテロたちには、舟は、お手の物だ。ここでは、イエスさまは不要だ。が、その時、突風が襲い、舟は沈みそうになった。弟子たちは、先生!と叫び声をあげた。

向こう岸へ渡る手前での出来事だ。そう、幕間のドラマなのだ。「向こう岸」は、デカポリス地方(5:20)、ユダヤ人からすれば、異邦人の地、異郷である。後の教会の異邦人伝道を想定させる未知の世界である。われわれの目指すべき「向こう岸」は、もっと先にある。その手前のところで、われわれは進みあぐねている。「向こう岸」どころではない。そのはるか手前のところで立ち往生している。恥も外聞も捨てて、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えていいのではないか。イエスは、「黙れ、静まれ」と一喝し、必ず助け出してくださる。

「向こう岸へ渡ろう」と言ってわたしたちを召し出されたイエスさまは、わたしたちの舟のどこかで、まだ寝ておられるのでしょうか。しかられてもいい。主の名を呼び、起きていただきましょう。教会の舟が、目指すべき方向に向けて、再び進み出すことが出来るために。 

2002/03/03
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