神の国を求めなさい ルカ福音書12:31-32
百人村の創建

 「世界を100人に縮めるとまったく違うあなたが見えてくる。」といううたい文句の百人村の本(「世界がもし100人の村だったら」マガジンハウス)を読んだ。<すべての富のうち、6人が59%をもっていた。みんなアメリカ合衆国の人です。74人が39%を、20人が、たったの2%を分けあっています。><すべてのエネルギーのうち20人が80%を使い、80人が20%を分けあっています。><銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は、いちばん豊かな8人のうちの1人です。><自分の車を持っている人は、7人のうちの1人です。>

 百人村に、教会を建てるとする。百人村の牧師には、どんな人がふさわしいだろうか。すっかり考え込んでしまった。(失格かな・・・!?)

 できるとかできないとかの問題ではない。これからの教会の宣教は、百人村の視点に立って始めなければならない。それが、二十一世紀の運命だと思う。

 百人村の視点に立って、聖書を読み直す必要があるだろう。いや、聖書は、百人村の視点で書かれているのではないか。今年の教会標語がそこから選ばれているきょうの聖書のテキスト、あるいはこのルカ福音書12章全体を読んでみるだけでも、百人村の視点の重要性が見えてくるように思う。

 主イエスは、「ただ、神の国を求めなさい」と命じておられる。

二三週前に、<神の国をなににたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。>というところを読んだ(マルコ4:30-32)。小さい者たちがみんな集まって安全に暮らせる共同体のイメージだ。百人村のあるべき姿がここにある。

隣接の小公園にやってくる鳥たちを見ながら、鳥たちが止まって休める木を保存し、育てなければならない、と考える。ケンと散歩していて、なぜかはたと思った。盆栽には、鳥は止まれないと。縮み思考のわれわれは、発想がとかく盆栽的になりがちだ。百人村では、鳥たちが来て止まり巣を作る木を育てなければならない。

もっともマルコは、必ずしも巨大な木とは言わない。鳥たちが来て止まる「野菜」。大きければいいという、拡張主義、拡大主義ではない。しかし、趣味的観賞用の盆栽ではない。小さな種から育った、やわらかくて大きな「野菜」樹だ。百人村にふさわしいイメージではないだろうか。

 「小さな群れよ、恐れるな」と呼びかけられている。「小さな群れよ」とは、まさに世界を百人村の視点で見よ、ということではないだろうか。同質の幸運な者たちが寄り集まってつくる村ではない。いかなる人も排除されることはなく、毛色の違う多種多様な人たちが何とか一緒にやっていく、危なっかしい村なのかもしれない。だからこそ、「恐れるな」という呼びかけが力になるのだ。教会から百人村を始めるのでなければ、この時代に、希望を語ることはできない。

 百人村の視点の重要性は、ブッシュや小泉首相にも知ってもらいたい。

 主の祈りを、毎日、熱心にいのりましょう。
 <ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。> 

2002/03/10  
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