人間の価値 マルコ福音書 5:1-20

 聖書は、どこをとっても、聖書の神がいかなる神であるかを物語っていると言えるが、いくつかの代表的な個所を上げることができる。「モーセの召命」の物語(出エジプト3章)は、その一つである。少し抜粋してみる。

<主(神)は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、広々とした土地、・・・へ彼らを導き上る。・・・今、行きなさい。わたしはあなたを・・・遣わす。・・・」>
 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。」とも言われている。

 聖書の神は、民の苦しみを見、その叫びを聞き、その痛みを知ってくださる神である。そして、人を遣わしてその救済に乗り出される神である。

 神は、苦しみ、叫び、痛む民を、「わたしの民」と呼ばれるのである。聖書で、最初に「わたしの民」と呼ばれたのは、「イスラエルの人々」であった。イスラエル人は、これを独占的に用い、自らを選民と考えた。そこに、曲解があった。この点を執拗に説いたのは、パウロである。たとえば、ローマ書9章で、「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、云々」と書いている。

 さて、イエスが、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちを促して向かわれた先は、「ゲラサ人の地方」であった。デカポリス地方とも言われているように、異邦人の地域である。イエスは弟子たちを伴い、この地域で、孤独と絶望の中で「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」一人の人を目指して、少なくとも二三艘の小舟に分乗して出かけて行かれたのである。(心配性のひとは、たちまち、イエスの経済はどうなっていたのであろうか、と問うことだろう。)

 「弟子たちは群集を後に残し、イエスを乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」イエスの宣教は、信者の数を増やすための伝道とは別のものであったのだ。九十九匹の羊たちを後に残して、一匹の見失われた羊を捜し求めて行くのである。その「一匹」は、向こう岸の、異邦人の地に住む人間である。いや、人間以下の扱いを受け山中に繋がれていた人間である。彼の、苦しみ、叫び、痛みは天に達しイエスのもとに届いたのである。

 世間から見放されたこの一個の人間の問題の大きさは、六千人からなるローマの軍団「レギオン」の呼称で表現されている。さらに、この1個の人間の正気の回復のために、別の言い方をすれば、人間以下の扱いを受けていた一人の人間の人権の回復のために、二千頭の豚が犠牲になった、とも語られているのである。

 一個の人間の価値が、いかに絶大なものであるかを物語る出来事である。

 バブルの塔の構築に向けてまい進してきたこの国の経済がいまや破綻をきたしている。弱い者の叫びを聞き、一個の人間の価値に目をとめられた、イエスの神の国の宣教とその経済に学ぶときがきたのである。新しい時代は、パーソンから始まるのである。神が目をとめておられる一個一個のパーソンから始まるのである。

2002/03/17  
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